在であり、意識は二次的の存在に過ぎないと考えられる。併し彼による自然は、恰もシェリングの絶対者のように、永遠にして不動な自己同一者と考えられる。そこにあるものはシェリング風の自己同一であって例えばヘーゲル風の弁証法的運動ではない。之に相応してフォイエルバハは、人間をば、単に自然を受容する能力たる感性によって特色づける。と云うのは人間は自己の実践によって自然に働きかけるものではなくて、単に自然をそのまま受け容れれば好い、この受容の能力が感性なのである。この人間はであるから歴史――それは人間的実践の足跡と軌道である――を有たない。之は存在(自然)が、自己同一的な静止者であったことに相応するものである。でこのような自然(物質)は、それに如何なる運動と変化とを与えたにせよ、精神乃至意識にまで媒介されることが出来ない。だから、丁度十七世紀から十九世紀にかけての唯物論がそうであったと同じく、フォイエルバハの唯物論(吾々は之を自然主義的唯物論と呼ぼう)も亦、機械論的唯物論の範疇を出ない。ただ後者が前者と異る点は、後者が物質の概念を同一哲学風の広汎な範疇に於て理解したという所に横たわるだけである。
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