き纒っていた主観という意味を脱して却って客観的なものにまで転化する(客観的精神)、否、観念は終局に於ては主客の対立を具体的に止揚して――フィヒテやシェリング(F. W. J. v. Schelling)は主観の対立を抽象し去ったに過ぎなかったが――絶対的となる(絶対的精神)。之は観念がその行く処まで行き着いて了ったことを意味するだろう。ここにはすでに観念自身の譲位が、観念論の終焉が、用意されている。人々は之をドイツ観念論の終焉として、ヘーゲル哲学体系の崩壊として知っているのである。蓋しヘーゲル哲学はドイツ観念論の総決算であり、そしてドイツ観念論は従来の観念論の総決算であったから――かくて唯心論は唯物論にまで必然的に転化しなければならなかった。
併し吾々は残余の唯心論の二三の特色あるものに就いて語っておく必要がある。第一はライプニツ(G. W. Leibniz)の単子論(Monadologie)。単子(モナド)は意識(表象)的乃至精神的単位であり、夫々の個性をもつ。ここから観念論は個性の哲学として後世に伝えられる。アリストテレス(〔Aristotele^s〕)から系統を引くこの個性の哲
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