同一哲学やスピノザ風の汎神論が混入しているのであり、対立の代りに調和を、絶対的なるものの代りに相対的なるものを強調し、従って或る意味に於ては唯心論と不可知論とを許容するかのように見える。夫にも拘らず其核心は全くマルクス主義的な唯物論的弁証法に帰着する。彼はセントペテルスブルクに在って「カール・マルクスの資本論」なる論文を Demokratisches Wochenblatt 誌(一八六八年)に寄せている。マルクスは一八七二年のハーグのインタナショナルに於いて派遣委員たるディーツゲンを「吾等の哲学者」として紹介し、資本論二版の第一巻序文(一八七三年)には彼の名を挙げ、一八七五年には自らジークブルクに彼を訪問している。フォイエルバハも亦彼に大きな影響を与えた友人であり彼との交通もあった。フォイエルバハが貧困のうちに死んだ(一八七一年)のを聞いてディーツゲンは泣いたとさえ伝えられている。一八七八年ヘーゲルとノビリンクの独逸皇帝狙撃事件の折、ケルンに於いて彼がなした扇動演説「社会民主主義の将来」の廉で逮捕され、三ヵ月間投獄された。なお又当時は事業に失敗したので、長子をアメリカに送って生活資金を
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