てカント哲学の研究を始めた。その結果、彼は従来彼を苦しめて来た決定論と自由意思論との対立がカントによって始めて解かれることが出来たと考えた。そこで翌年彼はカントの神学の立場に立って、『あらゆる啓示の批判の試み』(Versuch einer Kritik aller Offenbarung)を書き、ケーニヒスベルクのカントを訪ね、其周旋によって匿名の下に之を出版した(一七九二年)。世人は当時之をカントの作と評判したがカント自身の言明によってフィヒテのものであることが知れ、彼の名は一時に挙った。一七九三年の第二版ではすでにラインホルト(C. L. Reinhold)からの影響が著しい。一七九三年シュルツェ(G. E. Schultze)の著『エネシデムス』に対する評論を発表し、カントとラインホルトとを弁護した。この評論はすでにフィヒテ自身の意志とは独立に、この二人の先輩の立場を踏み越えているものであって、後のフィヒテ哲学たる「知識学」の萌芽をなすものである。其後直ちに『知識学又は所謂哲学の概念に就いて』(〔U:ber den Begriff der Wissenschaftslehre o
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