体的な構造連関として、現実的に存在している。かかる全体は部分の単なる集合でもなく又内的分節を有たない単なる一般者でもない。であればこそ一対象をその諸要素から原子論に構成することは出来ず、従って要素と要素との関係を因果的なものとして説明の対象とすることも出来ない。吾々はただ之を一つの全体として分解し記載する外を許されない。唯、かくしてのみ生は理解(解釈)され得るのである。処で生の理解、生の自己解釈には、体験、表現、理解の三規定があった。それ故精神科学にとっては、この夫々に相応した三つの基礎が横たわるわけである。体験に対応しては意識の研究としての心理学、表現に対応しては歴史の研究としての歴史学、両者の総合に当る理解に対応しては心理学と歴史学との結合たる解釈学。この三つのものが乃至はこの最後のものが、精神科学の基礎であり又方法である。そして之が取りも直さず哲学の方法なのであった(但しこの心理学はディルタイの所謂「記述的分析的心理学」であって、自然科学的な観念連合心理学のことではない)。ディルタイの精神科学論は、その重心を、心理学の理論から次第に解釈学の理論の方へ移したように見える。かくて精神
前へ
次へ
全200ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング