れる。アトムは自らの運動を固有している。ソクラテス以後ギリシア哲学の中心は自然哲学を離れ、その限り唯心論に傾いたと普通考えられているが、プラトンの晩年の思索は専ら自然哲学に向けられ、質料の概念に集注される。質料(プラトンは夫を場処―空間―と呼んだ)はプラトンによれば観念乃至形相(イデア・エイドス)の反対物だったのである。吾々はプラトン哲学―この代表的な観念論―に於てさえ結局質料主義としての唯物論を見ることが出来る。さてデモクリトスのアトム主義はエピクロス(Epikouros)の倫理説となり、やがてストア学派の唯物論を結実した。普通デモクリトスの場合を例にとって、唯物論は機械論(Mechanismus)と同一視される。併し唯物論が寧ろ機械論に止まり得ないものであることは、マルクスの学位論文によるデモクリトスとエピクロスとの比較を見れば好い。
 近世の唯心論がデカルト(R. Descartes)に始まったに対応して、近世の唯物論はベーコン(F. Bacon)から始まる。ホッブズは之を機械論的唯物論として徹底させた。ホッブズの唯物論の動機となったものは、当時の斬新な思想であったガリレイ(G. Galilei)の力学観であったが、ホッブズの唯物論は、恰もこの力学的見地によって支えられている。それが機械論的唯物論の形を取らねばならなかった所以である。
 ホッブズを以て代表者とする十七世紀のイングランドの唯物論は、やがて大陸に移って、十八世紀のフランス唯物論となる。茲では唯物論が生理学的根拠によって支えられる。ラ・メトリー(J. O. La Mettrie)やエルヴェシウス等が之を代表する。精神作用は感覚を以て始まるが、この感覚は全く物質的機能に外ならない。感覚は脳中に分泌作用を引きおこし、この分泌作用がとりも直さず意識なのであると考える。この云わば生理学的唯物論は十九世紀のドイツに這入って最も徹底した形を取った。之を代表するものはフォークト(K. Vogt)である。彼に従えば精神は全然脳髄なる物質の所産である。恰も肝臓から胆汁が分泌され、腎臓から尿が分泌されるように、脳髄から分泌されるものが精神作用に外ならないと云うのである。モレスコット(J. Moleschott―オランダ人)も亦この派の代表者の一人であるが、モレスコットは更にこの唯物論に化学的根拠を提供して、意識は脳皮質に含まれる燐に依るものだと説明した。この生理学的乃至化学的唯物論は併し結局力学的唯物論に帰着する外はない。何故なら生理学も化学も力学の特殊の場合に過ぎないだろうから。ビュヒナー(〔L. Bu:chner〕)はそれ故、その唯物論をエネルギー不滅則に基けた。
 十七世紀から十九世紀にかけてのこの唯物論は、物質の力学的・機械的作用を集積することによって、生命乃至精神が成立すると考える。その限り悉く之は機械論的唯物論の範疇を出ない。その際物質と考えられたものは、そして悉く物理学的範疇としての物質の範囲を出ない。物質はどのように運動しても、それ自身の質を依然として変えない所の、その意味では動かない、死んだ存在でしかない。これは精神との間に永遠の溝を有たざるを得ないのである。
 フォイエルバハ(L. Feuerbach)は併し、この種の唯物論者からは非常に距っている。彼にとっては、存在とは物理学的な物質ではなくて、より哲学的な概念としての自然であった(人々は唯物論が自然主義に結び付く場合の典型をこのフォイエルバハに於て見るべきである)。自然が最も具体的な内容ある存在だというのである。自然は本来の存在であり、意識は二次的の存在に過ぎないと考えられる。併し彼による自然は、恰もシェリングの絶対者のように、永遠にして不動な自己同一者と考えられる。そこにあるものはシェリング風の自己同一であって例えばヘーゲル風の弁証法的運動ではない。之に相応してフォイエルバハは、人間をば、単に自然を受容する能力たる感性によって特色づける。と云うのは人間は自己の実践によって自然に働きかけるものではなくて、単に自然をそのまま受け容れれば好い、この受容の能力が感性なのである。この人間はであるから歴史――それは人間的実践の足跡と軌道である――を有たない。之は存在(自然)が、自己同一的な静止者であったことに相応するものである。でこのような自然(物質)は、それに如何なる運動と変化とを与えたにせよ、精神乃至意識にまで媒介されることが出来ない。だから、丁度十七世紀から十九世紀にかけての唯物論がそうであったと同じく、フォイエルバハの唯物論(吾々は之を自然主義的唯物論と呼ぼう)も亦、機械論的唯物論の範疇を出ない。ただ後者が前者と異る点は、後者が物質の概念を同一哲学風の広汎な範疇に於て理解したという所に横たわるだけである。
 
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