実証されるには到らぬにしても、多分やがてはその真理たることが実証されるだろうと希望する合理的理由を持っているのであって、その限りに於てこれは単なる便宜ではなく一種の客観的な真理に属する。
【作業仮説】 単に研究の便宜だけのために設けられた仮説は作業仮説 working hypothesis と呼ばれ、研究の便宜のために役立ちさえすれば目的を達するのであって、それ自身が客観的真理を表現するものであるか否かは問題でない。従って之の実験的検証も亦必要ではないし又無意味でさえある。
【仮説と理論】 本来の意味に於ける仮説は、客観的真理の一表現である限り、一種の客観性と真理とを有っていることは忘れられてはならないが、併し又他面に於てそれが何と云っても主観の産物であり而も主観の主観的案出による産物であることに変りはない。この意味に於ける主観性は仮説の免れない特色をなす。ポアンカレ 〔H. Poincare'〕 などは、仮説を或る部分的事実認識からの拡大・拡張だと考える。特定の経験的事実を、思考的に一般化することによって、他の経験的諸事実をもその一般物の上に含ませようとするのが、仮説構成の目的でありまた手続であるという意味である。仮説を今、このように経験的事実の一般化だとすれば、我々は仮説なるものが理論に於て演じる役割に注意せねばならぬ。なぜというに、理論こそ恰も、経験的事実を一般化し普遍的な場合にまで拡大・拡張したものであるからである。
理論は経験的諸事実から抽出され抽象された所のものであるが、理論も亦やがて実験的検証を受けることを要求する義務と権利とを有つ。この点理論なるものと仮説なるものとの間には殆ど何等の区別がない。ただ科学に於ける理論は何等か特殊の仮定なしに、全経験的事実を統一的に説明し得る又は得そうに思われる所のものを指すのであって、これがなお何等か特殊の仮定を置いてしか許されない場合に、その仮定が仮説に他ならない。故に仮説とは、経験的事実から一般的理論(原則)を抽出導来するに際して、まだそこに理論上多少の偶然性が横たわっているような段階に、必要に応じて発生する所のものであって、理論への途の恐らく不可避な一中間段階に他ならぬと云うことが出来る。燃素説・光粒子説・原子論又原子小太陽系説・エーテル等々はかかる性質を有った仮説であった。
所でまだ理論としての充分
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