辞典
戸坂潤
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)軈《やが》て
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#ローマ数字2、1−13−22]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Vorwa:rts〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
−−
[#1字下げ][#大見出し]1 『経済学大辞典』[#大見出し終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
[#中見出し]ディーツゲン ヨゼフ Josef Dietzgen(一八二八―一八八八)[#中見出し終わり]
[#ここで字下げ終わり]
ドイツのプランケンベルクに生れた。父は鞣皮業。一八三二年父と共にウッケラートに移り、従前通りの事業に従事しつつウッケラートの小学校に通学、後ケルンの高等小学校に暫く在学した。其後半年程厳格なる教育のために語学校に送られた。幼年期には至極粗暴であったが、少年期に入るに及んで温順となり鞣皮工の労働の傍ら文学、経済学、哲学等の研究にいそしむ。一八四五―四九年の間独学でフランス語を学び、フランス経済学者の研究を通じて社会主義に傾倒し、後マルクス・エンゲルスの共産党宣言を読むことによって明白な階級意識を有った社会主義者となる。一八四八年の革命に参加したために一八四九年アメリカに亡命せざるを得なくなり、其処で鞣皮工、ペンキ職、教師等の労働にたずさわりながら各地を放浪し、英語を修得した。一八五一年故郷(ウッケラート)に帰り二年後愛妻を有つ。ウィンターシャイトで貿易商、鞣皮工等の職を営む。一八五九年再び渡米して南部地方に住む。間もなく南北戦争の際北方に同情する彼は故郷に帰る(一八六一年)。そこからセントペテルスブルクの官営製革場の監督としてロシアに招かれ、軈《やが》て又ドイツに帰来、ジークブルクで独立の鞣皮工場を経営す。後再びセントペテルスブルクを訪れた。ロシア滞在中主著『人間の頭脳、労働の本質、一職工の書ける。純粋理性及び実践理性の再批判』(Das Wesen der menschlichen Kopfarbeit, dargeste
次へ
全100ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング