ス(H. Diels)等の哲学史家達とともに 〔Archiv fu:r Geschichte der Philosophie〕 の編纂に与り、またナトルプ(P. Natorp)、シグワルト Ch. von Sigwart)等と共に 〔Archiv fu:r systematische Philosophie〕 の編集にも参加した。アカデミー版カント全集の編纂委員としての功績も大きい。
 彼によれば形而上学は現実的存在の夫々の或る一面のみを取り出して整合に齎《もたら》すものに過ぎず、経験的所与を絶対化するものであるから、形而上学相互の間には二律背反と解決不能な問題とが生じて来る外はない。夫故哲学はかかる形而上学的体系を有つべきではない。哲学の出発点となるべき現実的存在又は之から来る吾々の根本経験は凡て歴史的に制約されているものであるから、哲学は形而上学とは反対に、まず第一に歴史的方法に依らなければならない。ディルタイは茲でヴィンケルマン(J. J. Winckelmann)やヘルダー(J. G. Herder)、ヘーゲル(G. W. F. Hegel)やシュライエルマッハーに極まる歴史主義の精神に於て、又ニーブール(B. G. Niebuhr)、グリム(J. L. Grimm)、ザヴィニー(F. K. v. Savigny)等に依て代表される独逸歴史学派の精神に動かされてそう考える。併し此歴史的方法としてディルタイが、初めて独特な意味に於て精細に規定したものは解釈学と呼ばれる一つの哲学方法であった。元来解釈学とは文書解釈の技術のことであり、従ってフンボルト(K. W. v. Humboldt)等の言語哲学の発展としてシュライエルマッハー、ボェック(A. Boeckh)等に依て大成されたものなのであるが、ディルタイは之を単に言語解釈上の技術には限らず、広く現実的存在たる人間生活一般の精髄(生)の解釈の方法と考えた。夫が哲学の方法となる所以である。今、解釈とは理解(了解)と普通呼ばれる事柄の具体的学問的なものを指す。理解の概念から説こう。吾々は正当な意味ではただ精神的なるもの(生)のみを理解することが出来る。自然科学で取り扱うような自然は之を説明すると云うことは出来ても之を理解すると云うことは出来ない。自然は因果的に説明され構成され得る。之に反して生はただ記述され分析され
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