得るのみである。理解とは生の理解の外ではない。併し、生を理解し得るためには初めから生の内に生きているのでなければならない。生は生の外から理解されようがない(外から理解されれば夫は精神的な生ではなくて自然となって了う)。それ故理解とは「生を生それ自身から理解する」ことに外ならぬ。併し生とは何か。まず第一に「夫を生きること」(体験)でなければならない。そして而も体験とは意識現象に通じるものである外はない。凡そ現実的存在は吾々の意識を通路としてのみ生として生きてあることが出来又体験されることが出来るからである(現象性の命題)。併し、かかる意識(又はその意味に屡《しば》々用いられる処の理性)は単なる意識ではなくて歴史的意識(歴史的理性)でなければならない。何故なら現実的存在が歴史的なのであったから。で体験としての生は、その意味に於ける意識は、決して個人の主観の範囲内にのみ閉じ込められて終るものではない。体験は直観のようにはそれ自体の直接性に止まることが出来ない。体験するとは、外なるものを内なるものに取り入れることであるが、やがて生は逆に内なるものを外なるものとして表現せざるを得ない。かくて表現は生の第二の規定である。一応主観的な精神(生)と考えられた体験は、自己を客観的な精神(生)として客観化す。そうすることが生の事実なのである。人間の歴史的社会的所産たる科学・哲学・道徳・芸術・宗教等の文化や国家・教会・家族等の外的諸組織が取りも直さずかかる客観的精神としての生の表現なのである。生は外部的に表現されて、初めて却ってその見えない奥底を示すことが出来る。さて内なる体験を外部化したこの表現をば、もう一遍体験の内部へ取りもどすこと、之が理解ということの意味である。歴史的である生が具体的に即ち又歴史的に、体験され理解されるためには、生は自己の歴史的所産たる表現を通って来ねばならぬ。かくて理解は生の第三の規定である。生の以上三つの規定は併し同時に生の解釈の三つの規定でなければならぬ。生を生それ自身から理解するとはそれ故、このような三つの規定を具えた生の自己解釈の謂である。処で哲学そのものが、恰《あたか》もこの生の自己解釈に外ならない。ここから哲学の方法は解釈学でなければならないのは当然である。哲学が歴史的方法に従わねばならぬ理由であり、従って又夫が形而上学的体系を持ち得ない所以である。
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