形而上学的体系に代るべき哲学は、寧ろ形而上学の基礎たる諸世界観の類型の検討を試みる世界観説の如きものであるべきであろう。夫は云わば哲学である。
以上の諸関係は実はそのまま同時に精神科学の基礎であり、その方法を決定するものである。カントが自然科学に就いて行った処をディルタイはその所謂精神科学に就いて行った(精神科学とはリッケルト等の文化科学に対応するがその概念規定を異にする)。彼の歴史学的乃至哲学的労作はかかる精神科学の基礎づけに集中されている。その意味でディルタイの哲学は、何よりも歴史哲学としての性格を担っていると云うことが出来る。ディルタイの生と呼ぶものは云わば全人間的な夫である、人間はそこに於て表象し感情し意志する全人として生きている。人間は自己の環境との間に、かかる全人的交渉をなすことによって作用連関を有ち、彼は之を通じて歴史的・社会的連関に密に入り込んでいるのである。この諸作用のどの一部分を取って見ても全体(総体)への関係を含まないものはない、その意味で部分は常に全体に対して合目的的な意味を有っている。だから精神科学の対象たるこの歴史的・社会的生は、分脚を具した全体として、全体的な構造連関として、現実的に存在している。かかる全体は部分の単なる集合でもなく又内的分節を有たない単なる一般者でもない。であればこそ一対象をその諸要素から原子論に構成することは出来ず、従って要素と要素との関係を因果的なものとして説明の対象とすることも出来ない。吾々はただ之を一つの全体として分解し記載する外を許されない。唯、かくしてのみ生は理解(解釈)され得るのである。処で生の理解、生の自己解釈には、体験、表現、理解の三規定があった。それ故精神科学にとっては、この夫々に相応した三つの基礎が横たわるわけである。体験に対応しては意識の研究としての心理学、表現に対応しては歴史の研究としての歴史学、両者の総合に当る理解に対応しては心理学と歴史学との結合たる解釈学。この三つのものが乃至はこの最後のものが、精神科学の基礎であり又方法である。そして之が取りも直さず哲学の方法なのであった(但しこの心理学はディルタイの所謂「記述的分析的心理学」であって、自然科学的な観念連合心理学のことではない)。ディルタイの精神科学論は、その重心を、心理学の理論から次第に解釈学の理論の方へ移したように見える。かくて精神
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