な云い直しに他ならぬ。認識は一切の実践的理論的手続を介して成立するのであるが、併し認識と認識される客観的事物との直接関係は、全くの直接関係であって、その間に何等の媒介物を有たない。それがありのままに写すという言葉の意味である。之が丁度現物がエーテルという虚空のみを介して鏡に像を結ぶ関係に喩《たと》えられて、認識するということを写すというのである。従って所謂模写説に対する非難は本末が顛倒しているのである。
 さてこういう風に弁護された限りの所謂素朴実在論とは、要するに唯物論の認識論のことに他ならない。事実唯物論はそれが素朴実在論であるということによって非難されて来た。処がその素朴実在論とは、観念論者が唯物論の実際の主張とは無関係に仮想敵として造り上げた勝手な改釈によるものでしかなかった。常識や自然科学者が信頼すると云われる所謂素朴実在論とは、正確には唯物論のことに他ならない。この唯物論の哲学的権利については今日一般に知られている。
 だが素朴実在論とは区別しながら、自分の体系をなお実在論と呼ぶことを欲している哲学者は可なり多い。「新実在論」や「観念的実在論」(Ideal−Realismus)等が夫である。併し之はいずれも、観念論にも慊《あきた》らず、さればと云って唯物論を名のることにも一種の羞恥を感じる処の、実際の意図に於ては唯物論に向っているが意識された意図に於ては之を承認することの出来ない処の、一種の観念論者の自己弁解のための名称と見ていい。即ち実在論(それには無限に様々の種類があるが)とは唯物論とみずからを名のる勇気のない場合の、唯物論の代用物に外ならず、曖昧にされいつも抜け道を気にしている処の唯物論である。
 実在論と直接関係あるものに他に経験論がある。経験論は先天主義(先験主義乃至合理主義)に対立するのであるが、カント(I. Kant)の特徴的な表現を用いればカントの体系の如きは先験的観念論であると同時に経験的実在論であると云われる。ここでも見られるように経験論の立場に立つ時、認識理論はおのずから実在論とならざるを得ない。―併し経験論は必ずしも唯物論的なものに限らず(フランシス・ベーコン F. Bacon の唯物論とバークリ Berkeley の観念論、唯心論とを比較せよ)、経験は主観的なものとも主客合一のものとも考えられる。従って実在論にも亦、それが経験的
前へ 次へ
全100ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング