となり、倫理乃至道徳に於ては現実主義となり、神学に於ては実念論となる。哲学で実在論と呼ばれるものは、主として認識理論の一つの立場を云い表わす。又哲学でも数理哲学では数学的実在論となる。問題を哲学乃至認識論に限定しよう。
 実在論の最も典型的な模型は、素朴実在論である。之は、人間の認識は与えられた客観的事物をそのまま模写するものであるという主張に立つと云われている。処が観念論者は之れを批判するに際して様々の改釈を施すのであって、或いは客観的現実そのものが、全体的に一遍でありのままに模写されるという主張に直したり、或いは逆に、人間の意識にのぼるものがそのまま実在に照応するという主張に直したりする。前の場合ならば認識の発達・誤謬の発生というものの説明が出来なくなり、後の場合ならば、空想や妄想と現実性のある観念との区別はなくなる、と云って非難する。のみならず、実在が主観に対立する客観のことであるとか、又認識とはこの客観を鏡のように写すものだとかいう考え方は、全く常識的な観点を出ないもので、批判と反省とを経ない素朴な認識論にすぎないと非難されるのである。自然科学者は往々之を採用すると云って非難される。
 併し実際に観念論からするこの二群の非難に相応する実在論は、恐らく哲学体系として未だかつて無いのであって、之は観念論によって非難されるべき模型として、観念論者自身によって考案されたものに過ぎない。素朴な常識や自然科学者の観念と雖も右のような注文の通りには出来ていない。客観的事物をその儘模写するということは、その全体を一遍に写すことが出来るということとは無関係であるし、また夫を逆にして、意識された通りが実在そのものの姿であるという主張とも関係がない。実在そのもの、物自体、を順次に科学的な手続を経て歴史的に模写して行く過程を考えれば、この第一群の非難は無意味となる。―次に実在を客観と考えることには実在論固有の理由があるので、主観的恣意から独立な処に哲学の根拠を求めようとする必要から来る当然の帰結でなければならぬ。各種の実在の内でも特に客観的存在が就中実在としての資格を有っているという主張であって、もしこの主張に根拠がないとすれば、同様に観念論の存在観にも根拠がないということになる。それから認識は模写だという模写説は実は認識そのものの一つの説明というよりも、認識ということの同語反覆的
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