eschichte der neueren Philosophie von Bacon u. Verulam bis B. Spinoza, 1833.
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[#中見出し]自然弁証法 シゼンベンショウホウ 【独】Naturdialektik.[#中見出し終わり]
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 自然に於ける弁証法(自然の弁証法)をいう。弁証法は古来、存在そのものの弁証法(客観の弁証法)と認識・思惟・乃至意識の夫(主観の弁証法)との二つに分れて伝承されて来た観念であるが、唯物弁証法によって、この二つが初めて正当に結びつけられ、まず客観的存在そのものが弁証法的発展をなし、之の主観への反映として人間の認識・思惟・乃至意識内容に弁証法の連関が写され、且つこの主観そのものが又一つの存在として弁証法的発展をなす、と考えられるに到った。かくて弁証法は存在の夫と思惟の夫とに区別され且其両者が相連関せしめられる。思惟の弁証法は論理学乃至認識論であり、存在の弁証法は自然の弁証法と社会の弁証法とに分けられる。後者は史的唯物論(唯物史観とも呼ばれる)であり、之に対して前者が自然弁証法である。
 観念論的弁証法の立場からすれば、自然弁証法は成立しないとも考えられる。弁証法は広義に於ける意識自身の内にか、又は意識と存在との交渉に於てしか成立しないと考えられる。なぜなら弁証法というものは何等かの意味に於けるロゴスに関係して初めて意味のある観念であり、この点を外にして吾々は之を自証する術はないので、意識から独立した限りの自然に本来弁証法が固有であるという主張は、証拠立ての術がないことに就いて天下りの主張をなすという意味に於て、神秘的命題だと考えられるからである。この立場から云えば客観的存在にして弁証法的であり得るものは、歴史的社会だけだということになる(コルシュ―K. Korsch やルカーチ―〔G. Luka'cs〕 等が之を代表する)。又自然が弁証法的であることを認めるも、自然そのものが主観的契機や意識としての或る意味を有つと考え、従って所謂自然そのものには弁証法を拒否する者もある(田辺元、西田幾多郎の諸氏)。――併し之に対する反駁は唯物論そのものの主張から行われるべきで、必ずしも自然弁証法の問題に限った論点ではない。
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