来、主観にとって実践の対象である、主観を実践的たらしめるためにはこの物質が最後の逢着物としてそこになければならないのである。吾々は実践の尤なるものとして、産業や政治を数えることが出来る。
 では物質は物質以外の存在、意識(観念・精神)にどう関係するか。精神物理学的乃至心理学的な概念としての個人の意識は、物理学的物質の極めて高次の質的飛躍として之を理解する外はない。無論併しそれは、従来の唯物論に於てのように、物質の機械的作用として、又は物質からの機械的延長として、説明されることは出来ない。弁証法的唯物論に於ける物質と意識との関係は併し所謂イデオロギー理論に於て最もその特徴を明らかにする。イデオロギーの理論によれば、意識が存在を決定するのではなくて、人間の社会的存在が意識を決定するのである。意識は、物質的生産力から結果する物質的生産関係を基礎構造として、その形態が決定される。意識はそのような上部構造―イデオロギー―だと云うのである。物質生活から精神生活迄の一切の人間の生活を包括する歴史は、終局に於て、物質的なるもの――それが物質的生産力乃至生産関係という普通経済的と呼ばれるものである――を原因として説明される。唯物論はこの場合、唯物史観として登場する。唯物史観は広汎な弁証法的唯物論の特殊な部分的な場合に外ならない。だからこそ夫が所謂経済史観などとしては性格づけられないのである。
 弁証法的唯物論の根本的主張はマルクスによって残る所なく把握された。エンゲルスは之を補足して広汎な適用にまで齎らし、レーニンは之を、マルクス自身に劣らぬ天才を以て追跡した。レーニンの理論を準備したものとしてプレハーノフ(G. V. Plekhanov)が与えた唯物論の円熟[#「円熟」は底本では「円熱」]した解明と適用とを忘れてはならぬ。今日共産主義者乃至ボリシェヴィキによって展開されつつある弁証法的唯物論は、かくして成長して来たのである。最後に大切なことは、この唯物論が唯心論乃至観念論(ヘーゲルが之を代表した)の、必然的・正統的な徹底と発展とであったということである。
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参考文献――Lange, A., Geschichte des Materialismus, 2. Bd., 5. Aufl., 1896, 7. Aufl., 1902; Feuerbach, L., G
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