を見出すことが出来る。之がカントの先験的(批判的)観念論なのである(観念論は先天主義 Apriorismus に結合する場合が多い。カントやライプニツの例が夫である)。
 観念はフィヒテ(J. G. Fichte)の自我に至って恐らく最高の王座に据えられる。彼に於ては自我はもはや単なる表象意識でもなく判断意識でもなくて、行為意識となる。観念は、意識は、自己意識(自覚)となる。ドイツ観念論は正にフィヒテの事行(Tathandlung)の概念に至ってその極点に達する。之によれば存在は・事実は真の存在ではない。真の存在は存在ならぬ活動である。この活動は存在という主体を持たない純粋な活動であり、働くこと自身の外に存在ということはない。だから事実即行為(事行)だというのである。そしてこのフィヒテの自我の体系は、カントの先験的観念論の必然的発展なのであった。ヘーゲル(G. W. F. Hegel)によって、フィヒテの自覚は神的な世界精神に、宇宙理性にまで発展せしめられる観念は、ここでは最も含蓄ある意味に於ける精神(Geist)として把握される。だがそれと共に観念(Idea)は従来何と云っても之に付き纒っていた主観という意味を脱して却って客観的なものにまで転化する(客観的精神)、否、観念は終局に於ては主客の対立を具体的に止揚して――フィヒテやシェリング(F. W. J. v. Schelling)は主観の対立を抽象し去ったに過ぎなかったが――絶対的となる(絶対的精神)。之は観念がその行く処まで行き着いて了ったことを意味するだろう。ここにはすでに観念自身の譲位が、観念論の終焉が、用意されている。人々は之をドイツ観念論の終焉として、ヘーゲル哲学体系の崩壊として知っているのである。蓋しヘーゲル哲学はドイツ観念論の総決算であり、そしてドイツ観念論は従来の観念論の総決算であったから――かくて唯心論は唯物論にまで必然的に転化しなければならなかった。
 併し吾々は残余の唯心論の二三の特色あるものに就いて語っておく必要がある。第一はライプニツ(G. W. Leibniz)の単子論(Monadologie)。単子(モナド)は意識(表象)的乃至精神的単位であり、夫々の個性をもつ。ここから観念論は個性の哲学として後世に伝えられる。アリストテレス(〔Aristotele^s〕)から系統を引くこの個性の哲
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