Bイデア・観念を主観にまで結び付けたものは(多くの変遷を辿った結果であることは抜きにして)、聖アウグスティヌス(St. Augustinus)であった。キリスト教的信仰の体験にまで来て初めて落ち付くことの出来たアウグスティヌスは当然なことながら、事物の価値の判別を、それが内面的であるか外面的であるかに置いた。蓋し内面的なもののみ宗教的体験の名に値するのである。だが内面的なもの、それは意識である。かくて観念は意識となる。イデアは意識にまで主観化される(今日の欧州語 〔Idea, Ide'e〕 は茲から来る)。かくて変質された唯心論はスコラ哲学の底を潜って、近世の初めにデカルト(R. Descartes)に現われる。デカルトの有名な哲学方法によればまず一切のものは疑われてかからなければならない。だが疑うということ自身、即ち私が疑うということ自身、は疑うことが出来ない。私が意識するということ(我考う―cogito)は疑えない。そうすれば少くとも私がある[#「私がある」に傍点](sum)ことだけは確実でなければならない、そういう結論に到着する。今や意識は単なる意識ではない。それは意識する自我の有つ限りの意識でなければならない。観念の概念は自我の概念に集注する。
しかしデカルトの「我考う」に於ては、自我は単に表象しているに過ぎない、それはまだ判断する自我にはなっていない。観念は意識であり自我が有つ意識であるが、その意識がまだ判断意識にまで行かずに単に表象意識に止まっている。自我はまだ真理の定立という大切な任務を与えられていない。カントはそこで、この意識を意識一般にまで改造する。蓋し意識一般とは、客観的な真理を(夫は併しカントにとっては、唯一な自然界と等値物である)、成立たせる資格を有った意識である。意識はもはや単なる表象ではなくて表象の多様を統一する統覚であり、それが客観の規準として機能する点で、先験的統覚となる。このように先験的意識の論理的機能に専ら任じるものはカントの諸範疇なのである。之は客観にぞくするのではなくて、正に主観にぞくするものであるが(観念性)、併しそうかと云って、主観の任意に委ねられるのではなくて、主観自身が自ら則るべき規則を意味するから却って客観性を有つ。凡そ認識の(又カントに従えば存在成立の)客観性は、意識の、主観の、自我の、持っている観念性にのみ、根拠
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