]ったものである)。
カント自身が呼んだ弁証法は以上のように、吾々の区別に従うならば主観的弁証法に属しているが、客観的弁証法もまたカントの体系の内に見出され得ないのではない(尤も彼自身は何も之を弁証法と呼んでいるのではないが)。自然哲学に於ける所謂自然弁証法【本書二六ページ】の認識が夫である。ニュートン(I. Newton)が物質に引力を付与したに対してカントは更に之に対抗する斥力をも付与し、この相抗争する二力によって初めて物質とその運動との概念の構成が可能になると考え、之をその自然哲学の根柢とした。後にシェリング(F. W. J. v. Schelling)がその自然に於ける分極の概念を引き出した所のものが之であり、又ヘーゲル(G. W. F. Hegel)の自然哲学(自然の弁証法)の見本として役立ったのも実は又之である。
カントは第一批判に於て理論的理性から排除した物自体の占める位置を、第二批判に於て実践理性の対象界としての道徳の世界に与えた。理論的な経験の世界と倫理的な実践の世界とがかくて二元論的に対立する。両者は判断力批判(第三批判)を俟たなければ統一され得ない、両者は直接には統一を持てない。カント哲学を統一的に独特の原理を以て展開しようと企てたフィヒテ(I. H. Fichte)は、カントの物自体をば事行(Tathandlung)としての自我にまで純粋にし、理論的自我としての事行が必然的に実践的自我としての事行にまで移り行かざるを得ない所以を示した。かくてフィヒテ自身の信ずる所によれば、カント哲学はカント自身の実践理性の優位という精神に従って一元的に叙述され組織立てられた。この叙述乃至組織の仕方(哲学)がフィヒテの弁証法なのである。処がフィヒテにとってはこの哲学自身が恰も事行自身の展開に外ならない。であるから彼の弁証法は単に哲学的方法であるに止らず又同時に事行というものそのものの根本特色となる。併しそれにも拘らずこの弁証法は依然として結局主観的であることを免れない。何となれば、フィヒテの事行である自我は、如何に個人的な夫ではなくて超個人的な純粋自我又は絶対自我であるとしても、抑《そもそ》も自我という言葉自身が示しているように、優れて特に主観を意味する概念であることには変りがなく、又この自我の性格たる実践もまだ決して感性的な真の実践ではなく、意欲、当為、
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