ヘただ、感性に現われた、経験的材料と結合して初めて、経験という一定内容ある認識を有つことが出来るに過ぎない。この経験界を超越した物自体に就いて理論的理性は何物をも決定することは出来ない。併し事実上理性は物自体の存在を仮定する要求を捨てることが出来ない、そこで物自体に就いて何等の内容的な規定をも与え得ない理性が、経験界を超越したこの物自体に就いて何かを規定し得るかのような仮象を産むのが事実である。この超越的(先験的)仮象の論理(批判)がカントの名づける先験的弁証法である。彼の先験的弁証法は(特に二律背反の如きは)批判哲学の生成のための最も有力な槓杆として役立ったものであるが、体系上の秩序から云えば、消極的な位置を与えられているに過ぎない。之を弁証法と名づけた所以は、仮象の常として相反する主張の対立と抗争とを伴うからであるが(弁証法的仮象)、かかる対立と抗争との由って来る構造を明らかにすることは、とりも直さず従来の形而上学を批判することの消極的な一面に相当するのである。併しこの弁証法の実質上の意味はより積極的なものであると考えられる。理性が単独に理性として使用されれば、即ち感性と結合しないで超越的に使用されれば、かの仮象が生じるのであったから、弁証法とは茲では、理性が完全には独立性を有ち得ない、ということを言い現わしているものに外ならない。もっと限定して云えば、弁証法とは形式論理の論理としての完全なる独立性を否定することである。それであればこそ弁証法はカントに於て先験的論理学(形式的一般論理学に対して)の内に属している、そして、実際先験的論理学とは感性と理性との結合の(独立のではない)理論であった。それにも拘らず弁証法が先験的論理学の消極的な部分に止まらねばならなかったのは、論理の独立性の否定がまだ、論理自身の内に論理性の否定である矛盾が含まれるという形に於て意識されるまでに至らず、矛盾は全く論理外にあるべきものとして単純に斥けられて了ったからであり、要するにカントの先験的論理学はまだ弁証法的論理学にまで行かなかったからである。実際彼の先験的論理学の中心概念たる範疇はなおまだアリストテレスの判断表からの引用に外ならず、その限り先験的論理学(この存在の論理学すら)はまだ形式的論理学の支配を脱却していないのである(弁証法を分析論と区別して使うカントの用語も亦アリストテレスに
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