カ在自身が弁証法的であるならば、その存在は仮現の世界であってまだ真の存在界には属さないであろう。イデア自身は、であるから到底弁証法的ではない。かくてプラトンの弁証法はかの主観的弁証法に属する峻峯でなくてはならない。夙に対話篇的な労作を脱して実証的な諸材料を科学的に整理しようとしたアリストテレスは併し、プラトンの理論のもつ弁証法の意義を、単に学問の準備的手段・思惟の訓練と論争との手段に過ぎぬものにまで堕した。プラトンの主観的弁証法が積極的であるならばアリストテレスの夫は消極的と呼ばれて好い(積極的と消極的とのこの区別は後に夫々、ヘーゲルとカントとの弁証法に就いても一応通用するであろう)。
 以上の一連の主観的弁証法に対して客観的弁証法を取ったものは、新プラトン学派の最後の代表者プロクロス(Proklos)であるように見える。師プロティノス(〔Plo^tinos〕)によれば真の存在たる神性は一者であり、この一者が形相(形式)から初めて質料に至るまでの凡ての範疇をば自らを損ずることなく分出するのであり、而もこれ等諸分出は終に一者の内を出ないのであるから結局一者への復帰を意味する。かかる一者の一般から特殊への展開過程(分出過程)をプロクロスは弁証法と考えた。云うまでもなく之は思惟乃至方法としての弁証法ではなくて実在の過程としての夫である。併しこの客観的弁証法は新プラトン学派自体がそうあるように単に東邦の宗教意識に動機されている意味でばかりではなく、理論的解明を容れ難い点で神秘的であることを免れない。実際客観的弁証法の最も重大な要点は如何にして凡ゆる意味での神秘主義を脱却するかにあるだろう。今の場合は然るに却ってこの困難の最も著しい典型である。ニコラス・クザーヌス(N. Cusanus)等の所謂「反対の一致」は、実は弁証法(無論客観に於いての)の神秘主義的断念に外ならない。
 ギリシア哲学乃至ギリシア・ローマ哲学以来、弁証法をその体系に上程したのはカント(I. Kant)である。カントの批判主義の精神は、従来の形而上学の批判、又は真の形而上学のための理性の批判に外ならないが、そこで第一に問題となるのは従来真の存在と考えられて来た在りのままの物(物自体)である。カントによれば物がそれ自体に何であるか、如何にあるか、ということは理性(但し理論的理性)によっても決定され得ない。理性
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