ル証法の世界に結びついて来るのである。
 マルクス・エンゲルスの弁証法的論理学は多くの自称マルクス主義者によって色々に歪曲された。或いは之を社会の歴史の運動に於てしか適用例を見出し得ない関係であると云って、之を主観主義化したり(ルカーチ・コルシュ等)、或いは之を単に事物の客観的法則に過ぎぬものとして、之が人類の実践と共に進んで来た認識の歴史の要約である点を無視したり(プレハーノフ、デボーリン等)、之が人間の目下の思惟の論理学的な用具であるという方法論としての役割を忘れたり(プレハーノフ)して、之を客観主義化したりした。併しレーニン[#「レーニン」は太字]の哲学的労作が次第に公表されるに及んで、弁証法とは論理学のことであり又認識論のことであるという点が、再び明らかにされることとなった。弁証法と論理学と認識論との同一のこの再認識は、今日「哲学に於けるレーニン的段階」と呼ばれている。
 問題はこの三者の同一ということの意味である。之を本当に絶対的な同一と見るならば、議論はそこで打ち切りになる。そして単に、改めて、認識論や弁証法や論理学が夫々何であるかという、旧に帰った原始的な疑問の出るのが落ちだろう。思うにこの三者は本質に於て同一なのだ。従ってその言葉の上での区別は何でもいい。併しそれにも拘らず、弁証法的論理(即ち弁証法)に、認識論としての契機と論理学の契機とを認めるならば、一切の論理学的問題は極めて系統的に理解出来ることになるだろう。
 もう一つの問題は、弁証法的論理学と形式論理学との関係である。もし前者が正当ならば後者は成り立たない筈である。全くその通りで、弁証法的論理学という立場は、形式論理学という立場を許すことは出来ない。だがそうだからと云って、同一律や矛盾律が誤謬だということにはならぬ。之は弁証法的論理――矛盾の論理――の一断面、一契機を云い表わす限り、真理なのである。ただこの形式主義的論理法則が、一つの形式主義という立場の支柱に数えられる時、その法則の運用が誤謬となるのである。
 最後に問題になるのは、哲学と論理学との関係である。エンゲルスは今後哲学は形式論理学と弁証法だけになるだろうと云っているが、この弁証法(夫は形式論理学の法則を止揚し保持している筈だった)なるものが今まで述べたように、内容の極めて豊富なものなのである。豊富な哲学の根本原則は、凡てこの弁証
前へ 次へ
全100ページ中99ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング