リ法は、概念の独立な(事物そのものからは独立した秩序界にぞくする処の)運動の法則となるのである。論理はかくて論理それ自身として他の一切の事物から独立化する。そうすれば、現実の事物も亦、この体系から云えば論理そのものの自己発展の所産だということにならざるを得ない。これは明白すぎる形をとったカリケチュア化したナンセンスだが、このナンセンスの一つの内容が例の有機体説だったのである。
それは当然なことなので、事物の動きを云い表わす概念ではなくて、概念それ自身としての概念であるならば、正反の総合としての合は、無条件な全体でなくてはならぬ。即ち凡ての対立や矛盾はそのままで組織されたことになり、論理的な有機体が出現する他はない。なぜなら純論理的に、即ち概念そのものの解釈だけから云えば、合の内には常に正と反とがそのまま這入っているのであり、従ってそうである以上、何と云っても正と反とは調和ある妥協を保っているに相違ないからである。
ヘーゲルの弁証法的論理は、だからまだ純然たる弁証法ではない。そして先に、論理学が弁証法的である必要があった以上、この観念的弁証法は論理学として決して充分ではあり得ない。解釈の弁証法、独立の主体に化した概念それ自体の弁証法の代りに、必然的に要求されるものは、現実の弁証法、事物を現実に把握する限りの概念の、弁証法でなくてはならぬ。かかる弁証法的論理は、マルクス[#「マルクス」は太字]及びエンゲルス[#「エンゲルス」は太字]によって徹底された処の、唯物論的弁証法なのである。
唯物弁証法的論理は、単にヘーゲルの弁証法を観念論的な夾雑物から純化したに過ぎないと云ってもいいかも知れない。だが結果に於てはヘーゲルの論理組織を根本的に逆転させることになる。ヘーゲルでは夫は所謂汎論理主義となって現われた。併しマルクス・エンゲルスでは、概念の独立主体化、即ち論理学の絶対的独立化は、許されない。所謂論理学は、だからここで実在そのものとの限界に逢着せねばならず、又その逢着の必然性を豫め論理学自身の機構の内に蔵し自覚していなければならぬ。論理学が本当に論理学であるためには、却って自分自らの制限を自覚しなければならぬ。之が弁証法的論理学の弁証法的である所以であり、真の論理学の宿命なのである。ここで弁証法的論理は存在そのものの弁証法的法則に接するのである。つまり例の云わば客観的な
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