獄レすべきは、多くのヘーゲル主義的論理学者が、一種の全体主義に立ち、弁証法的論理を全体主義的論理で以て置き換えている、という現象である。B・ボーザンケトやB・クローチェ等がその代表者である。(一般のヘーゲリヤンや新ヘーゲル学派は今は論外である。)即ちこの種のヘーゲル主義的論理学者は、ヘーゲルの弁証法の内に、弁証法というよりも寧ろ有機体説を見るのである。そして之はヘーゲルの弁証法自身に責任があるのである。
 ヘーゲル弁証法の体系――それは往々汎論理主義とか論理学的発出説とか云われている――は、決して卒然として思いつかれたものや何かではない。その前に、代表的なドイツ古典観念論者のフィヒテと、そのロマン派的な強調としてのシェリング(その後期は別だが)とがあった。フィヒテは自我の自発的な必然的展開の内に、彼の弁証法を見たし、初期乃至中期のシェリングは自然の分極性と自然の勢位の上昇過程の内に、彼独特の弁証法を見た。だが何れも之は全く解釈の上のディアレクティックでしかなかった。と云うのは、自我や自然はこうした弁証法によって、単に解釈されただけで、何等現実的な説明を与えられたのではなかった。この解釈のための観念論的弁証法が、ヘーゲルの論理を制約しているのである。
 ヘーゲルは元来事物そのものの運動を弁証法的に把握しようと欲した。その把握には概念を必要とする。従って弁証法は概念に固有なものでなければならない。処が元来ヘーゲルには事物を現実的に処理することよりも、事物の持っている意義を、世界の有つ意味を解釈することを目的としていたのである。世界史はだから彼によると、神の世界計画が如何に合理的に実現したかという神義論だというのである。世界の現実の始まりは、神の世界計画などにはなくて、星雲の横たわる空間か何かであったに相違ない、それを神の世界計画に始まると考えるのは、世界に向ってキリスト教神学が押し与えている処の意義をば、始原の問題とするからこそだ。
 処で事物の意味を明らかにするものは、云うまでもなく例の概念であるが、今この意味の解釈だけがその認識目的だったとすれば、当然この概念の解釈が唯一の認識手段となるだろう。事物そのものではなくて、事物の意味を云い表わす概念そのものが、テーマとなり主題となり主体となる。かくて概念は観念的な主体にまで独立化せざるを得ない。――こうやってヘーゲルの弁
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