渇桙キるような内容を持った論理を考えれば、事物が運動し変化し生成消滅する通り、その論理的把握としての概念は、決して同一の内容に止まることは出来ない。従って同一律は無条件には通用しないから、従って又矛盾律もそこでは無条件には適用されなくなる。寧ろ矛盾することこそ、現実性を持った理論の本性なのであって、この矛盾を止揚するために動き出すことによって、初めて論理は活きて働くのである。論理は矛盾を通じてでなければ統一にも真理にも到着出来ない。否定に初めから触れないような肯定は、極めて薄弱な肯定であり、従って実は何等の活きた肯定でもない。否定を一旦通過することによってこそ初めて、この否定そのものが否定されうる。そこに初めて本当の肯定が生じることが出来る。――真理は具体的だ、と云うのは否定を否定して到達し得たものこそ、偏局しない全体的な真理だ、というのである。ヘーゲルによれば弁証法とは矛盾・否定・対立によって媒介された処の、真理に向っての論理の運動のことだ。
 形式論理学(機械論的論理)は事物を固定化し、絶対化し機械的な区別と結合とを与えることしか出来ない。だが弁証法的論理は事物をその運動発展に於て見るから、事物が固定化され絶対化されるということ自身が、この立場から見れば之を流動化し相対化すことを意味する。機械的な区別の代りに生きた相互浸透があり、機械的な結合の代りに、対立したものの間の統一がある。――つまり弁証法は形而上学の反対なのだ、とヘーゲルは説くのである。(但しここに形而上学というのはカントが批難しようとして果し得ず又徹底的には排除しようと欲しなかったあの形而上学の意味であるが、併し新カント学徒達が、認識論に対立させている処の哲学の暗黙に公認されている一分科としての、あの形而上学ではない。)
 ヘーゲルによれば形而上学を批判しようと試みたカント自身、依然としてこの形而上学の立場(即ち形式論理学・機械論)に立っている。その著しい例はカントの物自体の概念であって、之はカントによって現象から絶対的に隔絶されて了っている。物そのものはカントのように機械的に之を現象から隔絶孤立して了えばこそ、形而上学的観念となるので、物そのものとその現象との関係をこのように絶対化すること自身が、形而上学的だったのだ、というのである。
 ヘーゲルの弁証法を今茲に詳しく説明していることは出来ない。併し
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