サする)によって、却って矛盾に充ちた常識的信念に特有な非科学を意味するものとして斥けられた。プラトンがまず掲げた弁証法に、或る意味でその裏面から近づいたのは、プラトン主義者であるカントであった。
 カントがその認識論の構造の示唆を受けたものは、彼がアンティノミー(二律背反)と呼ぶ一つの論理学的現象であった。宇宙の無限や最後の単位部分や其他に就いては、人間の悟性乃至理性は、全く同一の確実さを以て、全く相容れない肯定判断と否定判断とを、同時に下すことが出来る。この特有な矛盾が二律背反である。カントによれば、之は理性が経験乃至感性的直観との協定を必要とするという認識手続の上の約束を無視するから起るので、この約束を守る以上、元来今云ったような宇宙論的な観念は抑《そも》々認識なるものの内容となり得るものではない、そういう意味に於てこうした宇宙論的諸観念はイデーに他ならない、という。――処が悟性乃至理性のこの不当な使用法から生じる幾多の論理的矛盾を、検討し、之から免れるには理性乃至悟性を如何に適切に使用すべきであるかを研究するのが、カントの謂う処の、ディアレク、ティックなのである。
 でつまりカントにとっては、弁証法なるものは、アリストテレスなどでもそうであり、又その言葉自身が元来往々そう使われて来たように、論理の云わば消極面、否定的な面を云い表わすもので、夫は論理学の正面に位置するものではなかった。処がそれにも拘らず、もはや従来の所謂形式論理学に止まることの出来なかったカントにとっては、この弁証法は、論理学の正面を云い表わすその「分析論」と並んで、その裹を[#「裹を」はママ]検討するために、表面に出て来る必要があったのである。――この現象は、カントの先験的論理学に於ける根本的な不整頓を意味するわけで、先験論理学が形式論理学の欠陥をこういう形で云い表わすという点を、無意識ながら判然とさせたのは、カントの卓越した見識に数えていい。
 処でカントのこの云わば消極的な弁証法を積極的なものと考え直したものが、取りも直さずヘーゲル[#「ヘーゲル」は太字]である。ヘーゲルによれば、弁証法は決して単に論理が矛盾に陥ることを憂慮する処の論理ではない。形式論理学の矛盾律に従えば、論理は常に一切の矛盾から超越していなければならないわけだが、それは論理を全く形式的に無内容に考えるからで、実際の事物に
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