セ字]の如きは従来の一切の論理学を伝統的論理学と名づけて、之を自分の近代論理学から区別する。所でこの種の論理学者は多く数学者であるが(ハミルトン、ブールを始めラッセル、クーチュラー)、現在数学の新しい運動としてこの論理計算に結合しつつあるものはD・ヒルバートの数学的形式主義である。
 併し同時に注目すべき現象は、ラッセルもクーチュラーも斉しく現代の優れたライプニツ研究家だということである。それは連続や無限に関する数学的論理学的研究がライプニツに出発していることにも根拠を持っているのであるが、実は夫と直接の繋がりのあることなのだが、数学的論理学はライプニツの「普遍文字」の思想に基いているからなのである。ライプニツは国語の相違によって論理の普遍的な通用が妨げられるのを不合理として、論理的表現をば、最も普遍的に国語を超越して通用する代数記号で以て、云い表わそうと企てた。之は一面に於て、言語学上ではエスペラント運動の観念の先駆でもあるが、他方に於て今日の所謂「近代論理学」の先蹤をなすものなのである。――論理学が機械的に形式的に合理化された極端な形が之である。
 さて以上は広義に於ける形式論理学の、系統と諸分派の特色とであったが、之に対立するものは、弁証法的論理学乃至簡単に弁証法である。(弁証法という言葉を一般的に広義に取れば、何も論理学のことに限らないのであって、事物の順序から行けば寧ろ存在の法則を意味する方が本来なのだが、併しこの言葉の歴史と普通の使用習慣から云うと、本来論理乃至思惟法則の名なのである。で思惟の論理以外のものを弁証法と名づけるのは、言葉の上からだけ見れば、アナロジーだと云ってもいい。尤もこのアナロジーに却って最後の真理があるのであるが。)
 弁証法を広義に解すれば、事物の存在法則そのものをも含むのだから、そうした云わば客観的なディアレクティックは、遠くヘラクレイトスにまで溯る。こうした客観の弁証法はやがて重大な問題とはなるのであるが、併し今一応所謂論理(思惟の法則)に問題を限定するとすれば、そこに必要な云わば主観の弁証法は、最初プラトンによって形を与えられたと云ってよい。矛盾を克服することによって真理に到達する科学的方法がプラトンのディアレクティックである。プラトン的ディアレクティックは、他面に於て例の客観的な弁証法を持っていたアリストテレス(存在は生成変
前へ 次へ
全100ページ中94ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング