、概念からは、その内角の和が二直角だという判断は分析的には出て来ない。三角形の直観が吾々に三角形という形の表象を与えることによって、この判断は総合され得るのである。処がこの直観は感性に属するにも拘らず、カントによると先天的(アプリオリ)な直観なのである。即ち経験を俟たないところの直観である。であればこそこの総合的判断は経験的な通用性に止まらず、経験から独立した通用性を有つところの先天的な判断であることが出来たのである。
こうした数学が適用される限りに於ける、一切の経験的認識の根柢も亦、総合的でありながら、単なるその場その場の経験によってはもはや制約されない処の、先験性を有つことが出来る。こうして初めて、一般に認識(経験的科学)の客観性が保証される、というのである。
カントが問題にした論理上の課題は、だから、もはや従来の形式論理学のように単に学問の手続や思惟の法則に局限されたものではなくて、科学的認識の客観性を如何にして保証し得るかということであった。之は科学的認識という具体的な内容をその論理学の内容としている。従って、もはや単なる従来の形式論理学ではなくて、云わば内容的な「具体的論理学」なのであり、その意味に於て形式論理学から区別されて、先験論理学なのであった。
之は従来の形式論理学に対する一つの決定的なショックであったことを見逃してはならぬ。少くとも形式的に止まっていた論理学に改めて内容を入れるということは、単に之にそのまま内容を※[#「※」は「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入することではなくて、この形式そのものを変改する必要を意味している。――だがそれにも拘らず、カントの先験論理学は矢張一種の形式論理学に止まっていることを見ねばならぬ。なる程カントの論理学は形式論理学の形式性を一応打破した。例えば同一律とか矛盾律とかいう極めて形式的な論理法則の代りに、図式(シェーマ――認識が構成されるためのプラン)とか原則(経験を成立させるための諸根本命題)などが提出される。この論理学の問題はその限り形式的ではなくて、科学的認識という具体的事情に照応している。だが之は、何も同一律や矛盾律そのものの批判でもなければ制限づけでもなくて、単に之とは殆んど全く別な課題を選んだということに過ぎない。形式論理学の根本的な最後の立場そのものは、カントの
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