der sogenannten Philosophie〕, 1793)を書き、認められてラインホルトの後を襲ってイェナ大学の教授となる。翌九四年大著『全知識学の基礎』(Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre, 1795)に著手した。当時大学に於ける学生に対する彼の影響は極めて大きく、そして彼自身之に重大な意味を認めていたのである。人類の道徳的教育こそが『学者の本分』(一七九七年の著書)だと考えられたから(一八〇五年には『学者の本質』〔U:ber das Wesen des Gelehrten〕 を講演した)。さて彼の主著によれば、カント哲学の欠点は統一と体系とに乏しいことに存する。カント哲学は原理によって組織的に「発生的方法」に従って展開されねばならぬ。併しそうするためには知識の根柢、諸学の基礎を論ずる「知識学」こそ真の哲学でなければならない。かくてカントの所謂物自体は絶対自我の概念にまで変更されるべきであり、そしてこの自我とは外でもない行為的・実践的な事行(Tathandlung)そのものに外ならぬ(カントに於ける実践理性の優位がこれ)。絶対自我は自己を自ら措定することによって初めて自我であることが出来、この措定作用の過程の中に存在の諸範疇が展開して来るのであるが、併し自我が理論的な領域で自らを措定している限り、夫はどこまで行っても「非我」に撞着せざるを得ない非我は茲では却って自我を制限するものとして現われる。併しこの非我も実は自我の作用の所産の外ではあり得ない筈であるから、自我は非我を克服して自らのものとなすべき努力の当為を負わされて来る。この時自我は理論的領域から実践的領域に移り、そこで初めて非我との対立を解消して自我本来の面目に到着する。之が道徳の世界である。処でこの叙述の体系は現実そのものの構造と一つであることを注意せねばならぬ、と云うのは之は現実に関する思想ではなくて、この思想そのものが現実だと云うのである。かくしてこそ初めて哲学は真正の意味での体系を有つことが出来る。こう考えることが観念論の典型たる所以である。但し茲でいう自我は決して個人的な経験的な自己でもなく又所謂意識という如き主観でもない。その限りフィヒテの立場は寧ろ客観的であると考えられるべく又より正しくは主客の対立を絶した絶対的な立場と考えられるべき
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