たドイツの有力な哲学者であり、独逸観念論の典型的な代表者と看做される。ザクセン州のランメナウの貧しい織紐工の息子として産れ、道徳的・宗教的情操の持主であった。年少にしてレッシング(G. E. Lessing)やクロップシュトック(F. G. Klopstock)、ルソー(J. J. Rousseau)等に影響され、人間社会の良き教師となることを希望した。一豪族の援助によって一七八〇年イェナ大学に入り神学を専攻の傍ら言語学、古典学等の研究に従い法律学には特殊の興味を有った。後ウィッテンベルクを経てライプツィッヒ大学に転じチューリッヒでは家庭教師となる。フランス革命に際会し、モンテスキュー(Ch. d. S. Montesquieu)やペスタロッチ(J. H. Pestalozzi)から動かされ、又ゲーテ(J. W. v. Goethe)やウィーラント(C. M. Wieland)等の詩人に傾倒した。併し自ら詩才に乏しいのを知って斯の道を断念した。未来の忠実なる妻ラーンを得たのはチューリッヒに於てである。
 一七九〇年私講師としてのフィヒテは一学生からカント哲学の講義を求められ之を機会としてカント哲学の研究を始めた。その結果、彼は従来彼を苦しめて来た決定論と自由意思論との対立がカントによって始めて解かれることが出来たと考えた。そこで翌年彼はカントの神学の立場に立って、『あらゆる啓示の批判の試み』(Versuch einer Kritik aller Offenbarung)を書き、ケーニヒスベルクのカントを訪ね、其周旋によって匿名の下に之を出版した(一七九二年)。世人は当時之をカントの作と評判したがカント自身の言明によってフィヒテのものであることが知れ、彼の名は一時に挙った。一七九三年の第二版ではすでにラインホルト(C. L. Reinhold)からの影響が著しい。一七九三年シュルツェ(G. E. Schultze)の著『エネシデムス』に対する評論を発表し、カントとラインホルトとを弁護した。この評論はすでにフィヒテ自身の意志とは独立に、この二人の先輩の立場を踏み越えているものであって、後のフィヒテ哲学たる「知識学」の萌芽をなすものである。其後直ちに『知識学又は所謂哲学の概念に就いて』(〔U:ber den Begriff der Wissenschaftslehre o
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