J働(特に零細農業労働)人口の圧倒的多数という事実に仮託して、農業中心主義而も低技術的な農業中心主義が日本精神の主なる内容であるとし、唯物論・マルクス主義、或いは自由主義・個人主義・資本主義等々が想定すると考えられる工業中心主義は、絶対に日本精神と相容れないと説くのである。つまり日本精神は非資本主義的であるから、ヨーロッパ的社会主義は日本精神にとって有害無益だということになるのである。資本主義の矛盾を資本と労働力との社会的対立にあると見る代りに、都市と農村との対立にあると見るのは、この農本主義の広く行われている結論の一つであり、日本の金融ブルジョアジー自身がこの農本ファッショ的結論に対して絶大な信頼を懐いていることは注目に値いする。
 日本精神の内容如何に就いては日本ファッシスト達の間に初め必ずしも完全な一致はなかったが、一九三四年(昭和九年)以来、右翼政治思想諸団体間の戦線統一がおのずから行われると平行して、夫は遂に国体明徴に帰着統一されることとなった。日本の国体の本義はこの絶対主義にあるのであって、日本精神とは取りも直さずこの国体意識だということに結着した。事実右翼諸団体の統一運動は、軍部・ブルジョア政党・反動諸団体の表面上強調する国体明徴の運動によって、遽《にわ》かに促進された。処が国体意識なるものは実は主として国家理論的な乃至は政治学的な技術上の観念であり、主として憲法の法律学的解釈の問題に結びついていたのであるから、各種の内容の日本精神は反自由主義的憲法解釈に於て、共通な一致した三角点を発見することが出来る。従って日本精神の内容は又この点に集中加重される。アジア主義や王道主義の声は衰え農本主義の教説は無用となり、独り絶対主義・国体観念だけが日本精神の中心に置かれることとなる。
 日本精神の提唱は一見自由主義に対する抑制であるかのように見える。事実又夫は封建的勢力の高揚に他ならぬように見える。だがもし日本主義を目して単なる封建的勢力の高揚だとしか見ない者があるとすれば、それは日本主義の本質を見誤り、それの処理法を誤るものでなくてはならぬ。日本精神は明らかに日本に強力に残存しつつある封建的勢力を材料とするものであり、もしこの材料に頼らぬとすれば全く成立し得なかったものであるが、併し問題は、何故に、何の目的のために、何の意義に基いて、かかる封建的勢力が日本精神の
前へ 次へ
全100ページ中85ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング