゙料とされたか、という点にあるのであって、ここに日本精神の意義と本質とがあるのである。単なる封建制の高揚は反資本主義的反動でこそあれ、資本主義の矛盾の隠蔽としては何等の用をなすものではない。そういうものが日本の資本主義の特別に危険なクリシスに際して遽かに高揚する理由はない。それが高揚し得たのは他ならぬ資本主義そのものの焦眉の急に夫が何より役立つものと意識的無意識的に資本主義自身によって認定されたからなのである。即ち日本型ファッシズムの何より有力な而も不可欠な材料としてこそ、封建的残存勢力がこのクリシスに際して特に遽かに動員され始めたのである。日本精神はだから日本ファッシズムのイデオロギー=日本主義の根本観念であり合言葉である。
 日本のブルジョアジーは決して純資本制的なブルジョアジーではなく、それがブルジョアジーであること自身の内に、封建的残存物に依存しなければならぬという二重性の統一を有っている。従って日本では徹底的なブルジョア・デモクラシーは未だかつて[#「未だかつて」は底本では「未がかつて」]実現されたことはなかったし、従って純正なブルジョア自由主義も充分に根柢的な伝統を有っていない。日本に於ける自由主義そのものが、封建性に依存して初めて高度に発達し得た資本主義の、かの二重性の統一という烙印を帯びている。従って日本精神の提唱即ち日本主義が自由主義の打倒を叫ぶにしても、夫は寧ろ自由主義の(日本に取っては)一つの誇張に他ならぬ処の純正なブルジョア自由主義を打倒すことではあっても、日本ブルジョア自由主義自身の打倒を決して意味するものではない。日本的ブルジョアジー[#「ブルジョアジー」は底本では「ブジョアジー」]は殆んど何等の転向と改心を経ることなしに、おのずから自由主義者となり又は初めから日本主義者であることが出来る。極端な戯画的な形態をさえ取らなければ、日本主義こそその本質と真髄から云えば、日本ブルジョアジーの、又は日本ブルジョア社会の、常識であり通念である。この常識と通念が誇張されたものこそ、正に日本精神なのである。主観的な意図に於て自由主義の精神と日本精神とが如何に対立対抗しようとも、その客観的な本質に於ては、二つの間におのずからの移行と連絡と協定とが横たわっている。特に自由主義の精神に立脚するブルジョア民主主義者は、迅速に日本精神へ傾斜して行くことが出来る条
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