Cデオロギー乃至文化は従って、いつも或る関係に於て技術的基礎に基いているわけである。而も文化乃至イデオロギーが技術的な基礎に基いているということは、文化乃至イデオロギーの内容機構が技術的なものによって一定の特色を与えられているということである。処で今この技術的基礎と自然科学との元来の密接な連関を思い起こせば、文化乃至イデオロギーの一般を自然科学的内容が如何に特色づけ得るかということが判る。自然科学自身が一つの文化乃至イデオロギーなのだから、従ってこの関係は、自然科学とその他の文化、イデオロギー一般との内面的交渉に他ならぬ。
 今日の文化乃至イデオロギーは大体に於て二群に分けられる。第一のものは技術乃至自然科学との連帯関係に忠実な文化(イデオロギー)乃至文化概念(イデオロギー概念)であり、第二のものは技術乃至自然科学との連帯関係を積極的意識的に又は無意識的に破棄したり自らそう称したりする処の夫である。後者は反技術主義・反合理主義・神秘主義其他の形の下に、今日のブルジョア・ファッショ・哲学の観念論の多くのものを含めている。之に反して前者は大体に於て、意識的無意識的に、唯物論の側にぞくしている。――ここで一般に哲学と自然科学との関係を明らかにする必要がある。
 近代の文化史上の特色の一つは自然科学と哲学との分離である。自然科学は哲学から独立し、哲学を俟たずに発達・通用し得るものと考えられた。之に応じて一方に於ては、哲学一般の否定と、自然科学(乃至広く科学)の体系そのものこそ哲学に他ならぬとする機械論に通じる文化理論とが、発生すると共に、他方に於ては却って又、哲学を如何にして自然科学乃至一般に科学から独立させて「アプリオリ」化すかという試みが行われた。自然科学(乃至一般に科学)と哲学とのこの分裂を正常な必然的連関に齎したものは云うまでもなく現代の唯物論である。現代唯物論によれば、自然科学は哲学(唯物論)的な世界観と範疇組織とを持たずには、その方法を確立し成果を要約し研究を目的意識的に促進させることが出来ない所以を明らかにすると共に、哲学も亦、自然科学の健全な立場と具体的な成果とに注意を払うのでなければ、観念論的乃至神秘論的な逸脱を免れることは出来ないと考える。蓋し哲学とは或る特定な意味に於ける論理学乃至認識論のことに他ならず、人間的経験と認識との総決算と要約とを意味するのだ
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