い何等かの人工的・人倫的・なものとなる。「東洋の学(教学のこと)の性質から、宗教・道徳・芸術・政治・経済が一以て貫かれ居ることを知る。」「我々にとっては元来学は一あるのみで、倫理道徳の学は政治経済を余所にしては学たる所を成さず、また宗教芸術のことも其の中に具備せなければ真に人間道徳の学と云われぬ。」「教の構成は道徳的天才自身の正善的創造であって、哲学的結論ではない。」――かくして倫理道徳的性癖を有つ東洋の学・教学は、「政教一致」、「経済道徳一致」、から「祭政一致」の説にまで、進むことが出来るのである。今日教学に非ずんば日本の学[#「日本の学」に傍点]に非ざる所以ではないか。
 蓋し教学は教えであって、科学ではない、今日学問乃至学と呼ばれるものでさえない。今日科学と呼ばれるものは、実証的実験的技術的精神と歴史的発達法則の認識とを目標とするものであり(「学のための学」などというのは単にその出来損いの一例に過ぎないのだ)、人を教えることではないのである。学と云っても、科学に於ては研究批判検討を支配することであって、教学に於てのように何か「学ぶ」というようなことではないのだ。科学は一つの教育方法を想定するが(そこに科学的精神の教育と専門技術的教育との区別があった)、教育ということが科学自身の内容を規定するのではなくて、逆に、最もよく科学をマスターし得るように教育しようとするに過ぎない。処が教学に於ける教えと学びとは、それ自身教育・育成を以て内容とする。教学的な教育が即ちそれ自身の内容をなすという構造は、教学特に東洋教学の嶄然たる固有特色なのである。
 だが之を以て学と実践との統一とか相即とかと思ってはならぬ。実は単に教えの伝承と伝習とが学びであるというにすぎない。而もこの教えの「学び」は権威あるものなのであるから、批判的検討の自由は原則として許されないし、まして実証的な研究に訴えることは許されないか無意味である。批判的検討の自由に基いた思索は、異端か自由思想家の列に這入るほかなく、実証的研究に訴えようとすれば多くの場合宗教批判[#「宗教批判」に傍点]の形さえ取らねばならぬ。勿論教学の著しい発展期には多少の批判と実証的研究が必ず行なわれる。始皇焚書後の漢代に於ける今文学に対する古文学の功績の如きがそうだが、併しヨーロッパの文芸復興となれば、それ自身すでに「宗教批判」(ドイツ的
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