再び科学的精神について
(「最近日本の科学論」続編)――教学に対して――
戸坂潤
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)科学の素人[#「素人」に傍点]に対する
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私はまえに「科学的精神とは何か」という文章を書いた。之は決して科学的精神全般について述べたものではなかったが、又決してその瑣末な一部分について述べたものでもなかった。そこに論じた事柄こそ、今日に於ける科学的精神の核心に触れる時局的要点であると信じたのである。そして文学主義と文献学主義との批判が之であった。
問題は主に社会科学乃至文化理論に連関する。自然科学に就いてはあまり触れなかった。だがこのことは、或る人達が考えるように、決して片手落ちでもなければ、又具体的でなかったのでもない。なぜ片手落ちでないかと云えば、今日科学的精神が話題として社会的に重大意義のあるのは、必ずしも自然科学的思考の世界に於てでもなく、まして自然科学者の専門世界に於てでもないからだ。そういう個処に於て科学的精神が問題になり得るのも、実はそれが社会科学・哲学・乃至文化理論と直接に連関するものとして、或いはそういう資格を取ることによって、初めて可能なことなのであるから、科学的精神は、正に社会的関心と結びついて初めて、重大な現実味のある問題となるのである。吾々が「科学精神」と云わずに、特に科学的精神と呼ぶ所以の一つもそこにあるのであって、この精神は決して科学だけの精神でもなく、まして自然科学だけの精神でもないのだ。之は今までも述べた。
従って自然科学や他の諸科学の専門家にして初めて科学的精神を正当に論じる資格がある、と云いたいような二、三の論者は、大きい誤謬を約束するものである。或る評論家は科学的精神を論じるに科学的体験を必要とするというような意味のことを説いたが、もしそのことが、文化上の無知な没分暁漢である日本の政治家や為政者に対する批判ではなくて、科学の素人[#「素人」に傍点]に対する批難であるとしたら、これ又同じ誤謬を約束するものだ。科学的精神は文化自体についての精神でなければならぬのだが、処が文化については没分暁漢は極度に沢山いるにしても、文化の素人という言葉は意味をなさぬだろう。それは恰も、生活の素人や、人間の素人が変なのと同じだ。科学的精神については抑
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