々素人が責任を取らねばならぬのである。
 尤もそうだからと云って、文化の各種の職業的専門家(?)の役割について、過小評価することはまた、ナンセンスだろう。自然科学者の科学的研究と考察とに聴くのでなければ、自然科学に於ける科学的精神を明らかにすることは出来ぬ。社会科学についても文芸其の他についても、この点変りがない。だがそれにも拘らず、科学的精神は、専門の科学者だけに専門のものであってはならぬ。之は広く民衆の文化精神を指すのが事実であり、又そうなければならぬことが本当なのだ。
 だから自然科学者の専門的研究のやり口や手続きばかりの内に、科学的精神の唯一の具体的[#「唯一の具体的」に傍点]な内容があると思うのも、又そこにこそ科学的精神の最も具体的[#「最も具体的」に傍点]な内容があると考えるのも、どっちも幾重にも誤っている。科学なるものが自然科学に於て最もよく現われるかのような想定と、そこに於ける科学的精神が科学専門家の専門技能としてのやり口や手続きに最もよく実現しているかのような想定と、少なくとも二重の誤りに立脚する。――こういう点は、前にもすでに述べた処から当然導かれる意見であるが、ここで殊更之を繰り返すのは、今云ったような誤った想定に立脚した科学的精神論が、論者の科学的精神への愛着にも拘らず、往々見受けられるからである。
 尤も科学研究のやり口や手続きと云っても、更に専門家的な技能技術をしか意味しない場合と、更に之を通じて正に科学的精神の本質に直接する場合とを区別しなければならない。科学(今特に自然科学でいい)の教育を例にとって見れば、専門家教育と普通教育との区別を必要とするのが今日の世論であり、初等・中等・高等・の普通教育に於ける科学教育は、同じ科学の生きた方法=精神を教育するにしても、専門家に対する科学研究法其の他の教育とは、教育の原則を異にしなければならぬ。そしてこの際、科学の普通教育に於て教育されるものは、他ならぬ科学的精神[#「科学的精神」に傍点]そのものに他ならぬ。勿論夫々の科学の専門の限界内での科学的精神のことだが。こうした各領域の科学的精神の間には、それが根本的な文化の精神である限り、おのずから云わば転位の可能な形式淘汰さえが可能であろう。で科学的精神とは、科学に就いても、科学の専門家教育の問題ではなくて、科学の普通教育の問題であることを、銘記せね
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