吾々にも必要であるが、実に科学の意義には二義ないが、学という言葉がこうして抑々老獪な二義性を有っていることを忘れてはならぬ。
「学は学のためにという自己表現的なる西洋風の考えを我々の学者がそのまま受け容れて、これこそ唯一真正の学の考え方であるとするは、ただ一を知って二を知らずというだけのことでなく、自己の性情に副わず、我が歴史的文化との融和を欠き、竹に木を接いだような趣があって、国の教学上軽々に看過することの出来ぬ輸入思想である。」「学のための学と国に忠ならんがための学との間には芸術と道徳との間の相違があり、表現と行為との段階があり、人生統一上深浅の相違がある」のだと云う。――だから教学[#「教学」に傍点]の観念にまで行くことを知らずに、日本的なるものを論じたり、科学的精神を難じたりする者などは、正に慚死すべきであろう。
 教学と科学とを対比させる以上、教学と真理との関係に触れないわけに行かぬ。そこで云う、「水流そのものに本も正も横もない、ただ水流の真理あるのみである。それ故にただ真理を以て正邪善悪を定めることは出来ないので、往くも復えるも、歩むも躓くも真理ならぬはない。教は即ち人生の建築であり、人生の耕作であり人生の治水である。その建築・耕作・治水の形相如何によって、かくするが正しくかくするが正しからず、かくするが善くかくするが悪いということが定まる」云々。つまり教学の真理は、ただの真理ではなくて「無数の真理の中に就いて、宜しく選択して人生を建立する」ことであり、「教の立て方によって正邪の異なるは当然である」、「教が立って始めて正邪善悪がある」のだから、というのだ。
 ではどういう風に人生を建立するのか。「国民生活の根本的規範たる教は其の国の立て方の全貌そのものである。」そして国の立て方というのは「歴史」のことである。「教無くして歴史は無く、歴史無くして教もない、教と歴史とは相依って立つもので、其の端を知ることは出来ぬ」のだそうである。つまり「教、国家、歴史」は一つづきのものとされる。この「歴史」が何を意味するかは最も興味のある処だが、しばらく先をつづけよう。
 国家や歴史と一つになるこの教・教学は、当然なことながら、極めて倫理学的なのであることを免れない。すでに真理の上に正邪善悪という教学的真理の選択がなり立つというからには、この正邪善悪は科学的真理に左右されな
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