に云えば「宗教改革」)のカテゴリーに這入って来るのだ。
 教学は孔子教乃至儒教で云うように、礼教とも考えられる。つまり既成社会秩序に於ける民衆習俗の設定と保守との道に他ならぬ。ここでは反動的な復古(周公の道への復帰の類)はあっても、進歩的な社会批判は許されなくなる。教学的精神の社会的意義の一端をここに知ることが出来るだろう。
 処がこうした権威と習俗との伝承伝習によって、教学は初めて歴史的[#「歴史的」に傍点]だと考えられているのである。竟り伝承的であるが故に歴史的だというのだ。歴史的発展(「進歩」というフランス大革命前後からの近代人の世界的表象)の故に歴史的だと考えられるのではない。だから之は歴史的精神でも何でもなくて、単に祖宗の伝習の精神であり、従って容易に保守とも復古ともなる処の精神でもあり得るわけなのだ。だからもし民衆の伝統という文化の重大要素が、この教学主義的な操作で操られるとしたら、民衆の不幸はこの上もないことになるだろう。
 教学の精神が実は歴史的精神の反対物であることは忘れられてならぬが、云うまでもなく之は又実証的・実験的・技術的・精神の正反対物でもある。ここに教学の例の倫理道徳主義があったのである。教学という東洋文化乃至日本文化に特に著しい名目的伝統が、何等か一応の文化的権威と生活上の真実を持つかのように、ボロを出さずに済むのは、他のことを抜きにすれば、全く技術的な実証的な問題を始めから回避してかかっているからである。処がこの秘密を一等露骨にブチまけているのは、東大の教育学教授入沢宗寿博士の著書『日本教育の伝統と建設』の類だろう。之は教学(日本の国民的宗教感情に基く文化)こそが日本文化の本質であり、教学精神に立った教育こそが、日本の教育伝統であり又今日の教育の建設的な理想でもなければならぬと主張するのである。この率直な意見は大いに傾聴に値いするのだが、では科学教育や技術教育になるとどうかと云えば、自然を通じて神を見ることを教えるのが理科教育の精神であるとか、偉大な自然科学者は又偉大な宗教家であるとか云って、ゴマ化して了うのであって、教学的教育のやや堂々(?)たる主張にも似ず、意外に貧弱な言葉をしか吐くことが出来ぬ。今日の日本では各方面に技術教育の重大性が良い意味に於ても悪い意味に於ても認識され、この問題が教育界の中心問題の一つになっているが、その時
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