それだけではない、幸福が個人そのものの幸福でなければならぬ限り、幸福を求める道は必ずしもヒルティのように労働の内ばかりにあるとは限るまい、他の解釈も大いに可能となるだろう。どんな不幸の内にも何かささやかな幸福はあるものだ。殆んど完全な絶望の内にさえ、多くの自殺者の遺書に見られるようなセンチメンタリズムの幸福の閃きはあるものである。死の恐怖がそのまま安心に転回されるという宗教的幸福が存在し得るのも亦嘘ではない(「イワン・イリイッチの死」)。幸福を個人的な観点からつきつめて行けば、こうして観念的な解決の底なし沼へつき進まざるを得ない。而も幸福というものはそういう個人的な観念であることを止め得ない。――ここに幸福という観念の観念性と無力とが横たわる。だからこそ之は単なる要請に他ならぬというのであり、想定以上のものではないというのだ。之を一つの能動的な構成原理として取り出すには不向きに出来ているのだ。恐らく幸福の説が幸福説とならずに多く快楽説となって現われるのもここに関係があるだろう。快楽の方が一つの構成原理として(快楽原理)、幸福という観念よりも適切なのである。
娯楽はそこで、確かに幸福と最も密接な関係を有っている。だが幸福に較べて遙かに社会的な特性を備えた観念であり、又もっとズット現実的で積極的な社会福祉の原理である、ということを予め注意しよう。と云うのは幸福なるものは元来一つの要請でしかなかったから、理想主義者の理想のように、由緒正しく真ともで肯定的なものであるには相違ない。誰が一体幸福を本当に否定する気になる者があろうか。それは丁度、社会運動をする者は誰だって人間の精神的自由を理想目的としていないものはないのと変らない。ただ困るのは、そういう理想目的を単に肯定[#「肯定」に傍点]しただけでは何物も始まらないということである。否そういう理想目的のただの肯定が却って現実の出発を妨げ又歪めるという点なのである。肯定的精神は大抵理想主義の精神なのだ。幸福も亦理想主義者のユートピアのようなもので、之をどんなに肯定したり強調したりしても、民衆はそれだけでは一向現実に於て幸福にならないのである。幸福となるための現実的な入口は、却ってもっと部分的な、もっと一面的な、云わば充分に周縁しない一種不完全な幸福観念にあるのである。もっと制限された、否定の可能性を欠かぬ処の、幸福観念で
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