娯楽論
――民衆と娯楽・その積極性と社会性・――
戸坂潤
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)吾々[#「吾々」に傍点]
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娯楽というものの価値が正当に評価されていない、娯楽が有つ深長な意義にもっと注意を払わなければいけない、娯楽の理論的な考察をもっと真剣に試みる必要がある、とそう私は主張したいのである。なぜかと云うとやがて明らかになるように、民衆が自分自身の生活について反省する時、娯楽は最も重大な実際問題だろうと思われるからだ。尤も吾々は、かつて農山漁村の民衆生活を心配したり、後には軍義的労働力としての民衆の体位を心配したりする、ああいう心配の仕方によって民衆のことを気にかけているわけではない。吾々は勿論民衆を支配したり指導したりする役目を持ってはいない。民衆を自分の手段とする者ではない。吾々はつまり吾々[#「吾々」に傍点]自身の問題として、娯楽というものを省察せざるを得ないのである。
こういうと、笑い出す人もいなくはない、娯楽の価値を正当に評価せよなどということは、諸君のような抑々初めから娯楽を平俗な低級なものだとして軽蔑したり叱りつけたりしている、一種の「インテリ」でなければ必要のないことで、大衆はそんなことを云われるまでもなく娯楽の価値はチャンと判っているのだと、そう云うだろう。なる程そうかも知れない。併し吾々という或る一群のインテリ群が娯楽の余暇と娯楽の能力さえをあまり持っていないというのが事実とすれば、その事実は決してこの吾々が「インテリ」であったり民衆を見下す相対的な貴族であったりするがためではない筈だ。実際を云うと、民衆こそは殆んど全く、娯楽の余暇と能力とを奪われている場合が圧倒的ではないのか。
娯楽というと、前資本制的な反資本主義者は、すぐ様近代都市的消費生活に於ける娯楽のことを考える。デパートやダンスホールなどを考える。そして娯楽の不健全さをそれとなく暗示するのである。農村の前資本主義的生活に於ける娯楽の大衆的な貧弱さが精神作興に打ってつけの健全さに他ならぬとでも云いたいような通俗常識もあるのである。正月、盆、秋祭り、其の他の祭礼、こそが健全な唯一の娯楽で、それ以外のものは百姓達の驕慢を連想させる政治的不吉の兆でしかない、というような徳川政府的常識も未だに衰
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