えないのである。だがこういう常識の所有者、否こういう常識の保守者自身、の娯楽能力は別として、こういう常識そのものは正に、前資本主義的な生活の已むを得ない所産であったわけで、今日の娯楽は市民的交通の極度の発達と地方性の喪失とに照応しなければならぬ処の、近代的な観念なのである。農民の祭礼も決して娯楽でないのではないが、近代的な市民の交通関係に相応する娯楽観念の内に、包摂されてしか生き残らぬ娯楽であろう。例えば盆踊りは当局による上からの奨励にも拘らず、全国的に衰微しつつある。多少の復興を見る処もあるのは、それが実は近代的娯楽の意味を受け取っているからに他ならない。
吾々は今日、近代的な資本主義的(そしてそれから展化する処の社会主義的)娯楽を抜きにして、娯楽を論じることは完全に不可能だ。だが元来民衆を抜きにして娯楽を考えることは出来ない。それが娯楽というものの性質が、慰安や快楽の個人的性質と違う点であることを後に見ようと思うが、今日の一般民衆に於ける娯楽の貧弱さは、一方地方に於ては娯楽の前資本主義的な貧弱さのことであり、他方近代都市生活に於ては、資本制的娯楽そのものの分量さえが大衆にとって微量に過ぎるということだ。要するに今日の日本の民衆は、正常な意味での(近代的な)娯楽を恵まれてはいない。娯楽を知らぬ者は、高級文化の崇拝者たる一群のインテリなどより先に、一般の大衆自身だったのだ。
だから日本では、娯楽についての大衆的な・民衆的な・又云わば民主的な・観念が殆んど発達していない。娯楽は不当に卑しめられ、そして同時に事実に於ては不当に放置されている。こう見て来ると、民衆生活の民主的伸張擁護のために、娯楽が今日何を意味するだろうかが、略々見当づけられるだろう。娯楽なるものは、民主的な課題の一つなのだ。
処が今日娯楽と云えば、民衆に躾けをつけようという心掛けの人間にとってか、そうでなければ民衆の歓心を買おうと心掛けている人間にとってしか、用のない観念であるように見える。飴と鞭とか、それとも飴だけか、の相違しかない。どれも民衆の利用者がもつ処の観念であり、民衆という原料から専ら効用を惹き出そうという側の人間のもつ観念でしかない。で、なぜ吾々が今、娯楽の考察を重んじなければならぬかが、重ねて判るだろうと思う。
古代以来の倫理思想・倫理説・倫理学・を見ると、娯楽を以て道徳の何等
前へ
次へ
全15ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング