かの原理としたものは案外少ない。之に反して、幸福[#「幸福」に傍点]を原理としたものは、古来絶えない主流をなしている。快楽説というやや不幸な名を以て呼ばれるものがそれだ。快楽と幸福との区別はとに角として、その場合の問題の要点は快楽ではなくて幸福にあるのが恒で、エピクロスの園は実は酒池肉林の快楽の園ではなくて、幸福な賢者達の典雅な文化的社交界であったのだ。娯楽が近代庶民的な卑近さを有っているに反して、幸福は云わば超歴史的なモラルのアプリオリのようにさえ見える。つまり幸福というものは人生の一つの要請であって、それを想定しなければ話しにならぬが、そうかと云ってそれを想定したからと云って話しが実際に片づくものでもないのである。だから実際幸福という観念は往々にしてロマン派的なものであったり(メーテルリンクの『青い鳥』)象徴派的なものであったりする(A・ジードの『エル・ハジ』の如き)のだ。それが多少理論的な形をとると、理想主義的なものであったり観念論的・精神主義的・乃至神学的・なものであったり、そうでなくても高々精神医学的な処方や説教に類似している他ない。ヒルティの『幸福論』などがこうした最後のものの典型である(R・ケーベルはヒルティに対して深い同情を示している――『論文集』第二巻を見よ。そしてケーベルが文学の最も大きな役割の一つを教慰[#「教慰」に傍点]とでも云うべきもの――エヤバウウンク――に見出していることは面白い。教慰と娯楽との関係に就いては後に)。
ヒルティの幸福論の最初の一篇は、幸福というものが労働の内にしか見出せないという説明を以て始まる。休息と労働とは単純に相反した対立物ではない、疲労させる休息もあれば休息となる労働もあるが、結局に於て幸福は労働し労作することの裏にしかない、というのだ。この知恵は、云わば人生の生理学として真実であるばかりでなく、又社会科学的な真実をも含んでいないのではない。ただ問題なのは、こうした幸福がいつも何か個人的なものでしかないという、宿命なのである。なる程幸福は結局に於て個人の幸福なのだ。之を措いて社会の幸福も何もありはしない。だが単なる個人の幸福には止まらぬ処の個人の幸福、夫を仮に社会の幸福とか休戚とかいうなら、そういう幸福も考えて見なくてはならぬ。だが之はもはや人生の生理学の圏外に横たわるように見える。夫は幸福と呼ばれてはいない。
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