ある。処で娯楽は丁度そうしたものだ。
娯楽は決して幸福の凡てではない、そのほんの一部分にしか過ぎない、而も最も下等な種類に近い幸福でしかない、或いは寧ろ積極的に幸福と呼ぶことさえ出来ないものかも知れない。併し娯楽を入口とし娯楽を通路としない限り、幸福の社会的実現は事実不可能なのである。幸福は或る種の目的であろう、娯楽は之に反して決してそれ自身目的ではない、何かの手段に過ぎない。ただ実際に不可欠な手段であろうと思われるのである。
娯楽は或る意味で、消極的な弁解的な特徴を有っている。暇つぶし、退屈凌ぎ・休息・慰安・というものとごく近い点があるからである。併しこういう種類のものと娯楽との区別が今、大切である。往々娯楽をこういうものとしてしか考えないのが常識であるだけに、益々そうだ。
暇つぶしと退屈凌ぎは大体から云って有閑層での出来事であるというのが常識であるが、必ずしもそうばかりは云えない。閑暇やアンニュイが一種の文化的ポーズになる時は、それが他ならぬ有閑層のイデオロギーになっている時なのであるが、併し忙しい生活の内にも、突如として暇つぶしと退屈凌ぎとの必要を生じて来ることがあるのである。一定の、恐らくその時必要な又は可能な、労働に対して、気乗りがしない時、その労働が免れることの出来ぬ課題であればある程、或いはその労働が唯一の許された可能な労働であればある程、暇つぶしと退屈凌ぎとの必要は大きくなる。つまり労働が欠如している時ではなくて、気の向いた労働が欠如している時に、之が必要になって来るわけだ。
暇や退屈に苦しむということは抑々贅沢のように考えられているが、併し実際は、労働が出来ないということは人間にとってこの上ない不幸と苦痛なのである。云わば人間は一秒々々の時間について労作の義務を感じているのである。人間生活の時間の有限性が、こういう義務感を発生させる。そうでない限り、永久に「明日ありと思う心」は消えないので、仕事を無限に延引することは少しも仕事の成就を妨げることにはならぬ筈だろう。処が、芸術は長く人生は短い、というのが事実で、そこから時間に就いての人間的責任が生れて来る、という風に説明して出来なくはない。率直な事実は、人間が一般的に労働しないでは一刻も意識生活が出来ないということだ。ところで或る特殊のその場で可能な又必要な労働が何かの原因で気の向かない時に
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