的な積極性に於て理解された快楽、そういう異例な快楽にしか過ぎない。だから娯楽を快楽に還元することが誤りであるばかりでなく、之を快楽に包摂させることも亦誤りだ。
 快楽の一種に逸楽とでも云うべきものがある。之とても娯楽と一つではない。逸楽は或る逃避的な快楽を意味する。逃避する世界が深山幽谷であろうと市井の真只中であろうと、要するに社会的関心から個人的関心の内部へ逃避することだ。天下の逸民とは、自分の方も社会に対して何の要求も持ち出さぬ代りに、社会の方でも自分をソットしておいて欲しい、とする処の人間のことで、要するに或る特権を黙許された人間のことだ。民衆のことではないのである。娯楽は勿論難行道であり得る筈がないから、逸楽とどこか似た点もあるのであるが、併し娯楽の易行道は決して社会の建設的コースから脱線したものであってはならぬ。処でこのコースから逸脱する快楽こそ、所謂逸楽だったわけだ。

 では娯楽そのものは何か。大体之を二つの特徴から整理して行くことが出来ると思う。第一は或る社会性であり、第二は或る積極性と云っていい。娯楽の有つ社会性の特色は、それが多くの場合、個人の単独な享受ではなくて必ず相手又は同志があるということに現われる。囲碁・将棋・などの手腕に基く勝負、競馬其の他のような知識と予見とに基く勝負、又は完全な偶然を建前とする勝負(賭博)、単なる競技(撞球其の他の類)、運動による競技(野球・水上・トラック・フィールド・などの競技的なスポーツ)などは勿論であるが、併しそれより大事なのは、例えば演劇・映画・其の他の演芸・スポーツ・等々の鑑賞が、事実に於て決して単独の観客によってはなされないということであり、多数の観客大衆を俟って初めて興行的に可能であるばかりでなく、之を俟ってその鑑賞そのものが初めて娯楽としての好さを生じて来るということである(之が商売乃至職業である場合を勿論除いて考えねばならぬが)。こうしたものは単なる普通の意味に於ける芸術的な鑑賞ではない、同時に一つの社交行為であることを忘れてはならぬ。折角芝居を見に行って、観客が寥々としていること程、ガッカリすることはあるまい。劇場が大衆的なものであればある程、立派で華かなものであることを要求される理由も亦、この社交性にあるのだ。
 [#底本では1字下げしていない]娯楽的な意味の勝っている芸術は、寧ろこういう一種の
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