―快楽は一つの原則である。快楽原理と呼ばれるものが夫だが、併し同時にあまりに絶対的原理でありすぎる。と云うのは、それが独立に徹底され得る原理であることによって、みずから自分を束縛せざるを得なくなるような、そうした原理の一つだと云うのである。快楽の原因は刺戟に置かれるのを普通とする。刺戟は反覆することによって逓減するのだから、一定質量の快感を保持するためには刺戟を限りなく増加しなければならぬ。だがそこには云うまでもなく限界がある。快感の飽和点がある。ここが快楽の危機であって、ここから快楽の浪費と快楽浪費そのものの不快な快楽とが生まれる。淫するというのは之を指すのだ。淫することは何も肉的欲情に限ったことではない、快楽一般の法則だ。この淫楽はおのずから自棄に通じ、やがてアンニュイに帰するものであるがこうなると、実はもはや快楽ではなくなって、前に述べた処の、あの退屈凌ぎや暇つぶしというカテゴリーに突入して来る。自棄的な暇つぶし、自暴的な退屈凌ぎ、ということになる。
 快楽は熱情的な積極性を有っている。確かに之は生命の原則の一つだろう。だがその積極性の無条件な徹底は、遂に慰安と休息さえのないアンニュイに陥る。快楽の結局の非積極性と弁解的本性とがここに見出されるわけである。これは確かに生命の原則の一つだ。生理的・個人心理的・な生命の原則だ。だがこうしたものは無条件には必ずしも生活の原則ではあり得ない、社会生活[#「生活」に傍点]の原則の一つではあり能わぬ。快楽は個人的な生活原理なのである。快楽は幸福よりも機動力を持っている。幸福は単なる想定であり、或いは高々精神の均衡関係としての満足という結果か状態に他ならぬ。之に較べれば快楽は、それが一定の刺戟から直接に制約されている限り、ただの精神的想定や状態や結果ではなくて、正に心理的原因であり、心理的な原動力なのである。これだけの違いはあるが、それにも拘らず快楽は、個人的な本質の観念である点に於て、幸福と大して違ったものではない。
 かくて快楽という観念は結局に於て自壊する積極性しか有たず、又社会的規定をそれ自身には持っていない、そういう観念なのだ。少なくとも物事を快楽というカテゴリーで把握する限り、その物事がそういう風に把握されざるを得ない。――娯楽は一種の快楽であると云ってもいい、ただあくまで個人的でなく理解された快楽、あくまで養生
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