、積極的な熱情があり、文化一般の健康感を結果する処の、あの建築的で蓄積的な生産的能力が備わっている。たといその文化的な身上があまり高くないにしてもだ。単に無間地獄に落ちないだけのための、暇つぶしや退屈凌ぎと根本的に異る所以だ。
 娯楽は又、休息や慰安とも密接な縁故があるだろう。だが休息と娯楽とをすぐ様結びつけて考えることは、実は休息を労働から無雑作に切り離して考えることであり、従って又娯楽を労働から引き離してしか理解しないことだ。こうした労働の観念は何を意味するか。奴隷制的労働でなければ、一般に奴隷的な労働をしか意味しないだろう。とに角労働に関する所有者的観念に立ち留ることを意味する。それではつまり、娯楽の所有者的な観念の或るものに止まることに他ならぬ。それから、娯楽を慰安と同じに考えることも亦、所有者的な観点から民衆を打ち眺める結果の一つだ。民衆勤労生活の不幸を想定することによって、且つこの想定を不変な公理とすることによって、初めて慰安という恵善的観念が社会的に生じて来るのであるが、之を以て他ならぬ娯楽だとすることは、結局民衆の不幸に対する弁解と補償として、娯楽を利用することになるのであって、民衆に対する社会的支配の道具の一つを娯楽に発見するというやり方に他ならぬ。之は民衆の娯楽であるようであって実は民衆の娯楽ではない。吾々は然るに、初めから娯楽の民主的な観念をこそ求めていたのだ。
 慰安と休息とは、暇つぶしや退屈凌ぎに較べて、遙かに或る社会的な本質を持っている。後に見るように、もし娯楽が或る社会的な本質を有つものだとすれば、少なくともこの方が娯楽により近いことは想像していいだろう。それだけではなく、何と云っても慰安や休息は、その後の労働に生気を与える原因になるわけだから、それだけ養生的[#「養生的」に傍点]な意義を持つわけで、この点でも暇つぶしや退屈凌ぎのただの消極的で弁解的な本性とは異っているのだ。だがそれでもなお、慰安や休息はそれ自身に積極的な建設力があるのではない。あくまで労働に対立する慰安であり休息であることが、所謂慰安であり休息である所以だからである。――娯楽が慰安や休息として利用されることは勿論甚だ多い。だがそれ自身が娯楽なのではない。

 さて最初に私は、娯楽を幸福に比較した。その時残されたものは、快楽と娯楽との関係であった。その点はどうなるか。―
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