社交感をその芸術内容の一つとしているだろう。だが芸術のことは後にして、会食やティーパーティーやダンスパーティーは、明らかに社交的娯楽の意味を有っている。勿論全く個人的にも行なわれ得る娯楽もないではない。独りで講談本を読むのも、独りで流れに糸を垂れるのも、或いは体育的な意味に於ける個人スポーツ(勝負事や社交としてのスポーツではなく)も、強いて云えば娯楽に数えていい場合が多いかも知れない。だが体育さえもそれが本当に社会化されて日常生活に入り込む時は、マスゲームのようなものにならざるを得ない。そしてこういう風に社会化されて日常生活に浸潤する場合、それは同時に娯楽的な意味を得て来るのである。同様なことは娯楽としての音楽についてもその通りに云えるし、登山・ハイキング・旅行・から始めて酒席さえも亦、或る限度の相手を必要とする。それが娯楽のカテゴリーにぞくする限りはである。
 今雑然と並べて見たように、娯楽は殆んど一切の生活領域の内に根を持っているのである。単なる娯楽としての娯楽というものは、独立の文化領域としては存在しないかも知れない。一切の文化領域が夫々の限度に於て、或る程度まで娯楽の範疇に這入ることが出来るのである。どういう限度かと云うと、結局或る意味での大衆性乃至民衆性を有つ場合であると見ていいようだ。と云うのは、娯楽は労働に対立する意味での休息や慰安、暇つぶしや退屈凌ぎとは異っていたが、併し同時に、勿論単なる労働でもないので、最も入り易い、最も安易[#「安易」に傍点]な最も甘美[#「甘美」に傍点]な、そして最も魅力と模倣性とを有った(大抵は直接大して生産力とはならぬものではあるが)、労働であるわけだが、そのことから、娯楽が通俗性[#「通俗性」に傍点]を不可欠な要素としていることが判る。ディレッタンティズムなどと正反対な所以だが、さてその通俗性・平俗性・というものが、娯楽の大衆性乃至民衆性と一応さっき云った処のものに、他ならなかったのである。
 安易・甘美・平俗・な本質を有つことによって、社交的形態に於ける享受を容易にされるようなものが、娯楽であり、娯楽の社会性と考えられるもの一切はここから出発して考察されねばならぬのである。例えば民衆の日常的結合の組織には、いつもこの娯楽の社会性・通俗的社交性・が活用される。娯楽は大衆組織の拠り処の一つだろう。ただそうであるためにも、娯
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