る。もし近代文明の薄暮を黎明に乗り替え、そして「もっと光を」と云うならば、技術的精神こそそれに答えるだろう。近世以来のユトピスト乃至ユトピア社会主義者の多くが、科学の王国を夢みたことは偶然ではない。彼等の多くは技術的精神の先駆者だったからである。カンパネラやF・ベーコンやサン・シモン等が、大なり小なりそうだった。尤もだからと云って、H・G・ウェルズなどが本当の近代精神だと云うのではないが。
だが一体、技術的精神とはどういう内容の精神なのか。私は之を科学的精神の半面だと考える。今ここで科学(特に自然科学)と技術乃至テクノロジーとの根本的な連帯について一般的な言葉を費す必要はないだろう。科学の発達が技術の発達を結果するのか、それとも技術の発達が科学の発達を結果するのか、どっちであるかというような問題は、そのままの提出の仕方ではあまり意味があるとは思われない。分析が面倒になって、両者の相互作用だなどと片づけて了うのは、勿論問題の解決ではない。要点は科学(特に自然科学だが)をば、云って見ればラボラトリー的規模に於て観念するか、それとも社会的規模に於て考察するかである。つまり社会的所産の一環
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