でなくてはならぬのだ。こうした技術発達[#「技術発達」に傍点]の顕著な客観的条件が熟していることこそが、最も健康な意味に於ける近代性ではないだろうか。近代の資本制産業の莫大な発展が、そういう近代性を創り出した。所謂モダーニズムは(カトリックのモダーニズムと共に銀座のモダーニズムなども論外として)この近代性という照明の影に過ぎない。
 技術的精神は近代性という健康な照明である。光である。光というものは文献によると色々の神秘的な(ヨハネ福音書的な)ものから、神秘論的(ベーメ)な又形而上学的な意義(シェリング)をまで有って来ている。だが一方それが文明(エンライトメント・リューミエール)や啓蒙(アウフクレールンク)の観念にまで変って来たのは、勿論近世、特に近代である。それは近世ブルジョアジーの創造である。処が之は今日ではもはや単なるブルジョアジーの精神などではない。ブルジョアジーはすでに技術的精神について自信を失って了った。わずかに小市民のテクニシャン達の一握りが、多少感傷的な技術礼讃をやっているにすぎない。今日技術的精神を真に信頼し得ているものは、プロレタリアの文化であるというのが、事実であ
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