的、文化史的、意義を適切に正確に計算しないことから生じる。近代産業を何かの意味で、単なる技術というものに還元して了い、産業の持つ社会生産機構の問題を抜きにして了うものだから、その場合の技術的精神が、あまりに厭世的なものになるかと思うと、あまりに享楽的なものになるのだ。
 同じ近代産業と云っても、之を社会生産機構に於て見る限り、資本主義的近代産業であるか否かが、根本的な特色であることは、知れ切ったことだ。技術的精神も亦、それがどういう社会生産機構上の特色を有った産業と結びつけて考えられるかによって、色々に考えられる。之を資本主義的産業にだけ結びつけて考える限り、技術的精神は行きづまりの精神としてしか現われない。之が例の技術終末観である。これを免れるための最も簡単な方法は、近代産業を社会機構そのものと独立させて考えることだ、つまり之を純然たる技術自体と見ることだ。そうするとそれが、例の技術福音説となる。だが、本当を云うと、技術的精神は、近代産業発達[#「発達」に傍点]の精神でなくてはならぬ。即ち近代産業が資本制的な行きづまりを社会機構上打破して前進することに於ける、その社会的技術発達の精神
前へ 次へ
全18ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング