ければならぬわけではないのである。西洋文明の没落という現代の挽歌的ミトスが、このような説にエキゾティシズムか倒錯した郷愁かの響きを与える。実は資本制下に於ける技術の過剰と呼ばれている資本と技術との矛盾の現象、つまり資本制下に於ける技術自身の矛盾、又同じことだが、資本制自身が技術について生ぜざるを得ない自己矛盾、という現象を、簡単に原稿紙の上で片づけて了おうとするものが、この種の現代文明論であり、又その意味に於ける「技術の哲学」――之は実に沢山出版されている哲学書のジャンルだ――の大方なのだ。悪いのは資本主義の機構自身ではなくて、技術であり、技術的精神だ、というのである。
こういう技術の悲観説と終末思想とに反して、陽気なのはテクノクラシーなどの技術楽天説である。極端な例は資源を凡てエネルギーに換算し、このエネルギー計算の技師としての技術家が経済と政治とのブレントラストを組織せねばならぬ、という。勿論テクノクラシーの祖先と云われる経済学者ヴェブレンは、そういう安易な結論は出していない。そんな結論を惹き出したのは、半技術家で半文明評論家である若干の文化的野次等でしかないが、技術的精神の近代
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